火星人と握手、踏襲される人類史、そして完成した3頭のイルカ

何も書くことがない。何故なら日々特に何もインプットしていないからだ。為すべき事を為し、そして眠る。そういう生活だ。それでも何か書いて...というよりは誰かに「読んで欲しい」という気持ちがあって、ぼんやりとキーを叩いている。ただ、何もインプットがない状態で書くと、ネタを自分の内側から出すしかなくなる。曰く、「自分の切り売りに過ぎない自分語り」になってしまう。

6000 字埋めるに足る内容が必要になる。小説でディテールを描写する必要があるように、それ以外の文章でもテーマを掘り下げないといけない。そうすると書く以前の取材や調査をしっかりやらないとお話にならない。それ抜きに記事を埋めようとするとスカスカな「いかがでしたか?」や自分語りをやるしかなくなってしまう。自分語りが自分の切り売りに過ぎないことは言うまでもないです。

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この記事でいうところの「自分の切り売り」へのネガティブな感情については、以前

高尚な感傷で凍傷 - 千年先の我が庭を見よで書いた「誰かの過去の一瞬を除かせる生々しい単語が、そこから手繰り寄せられる「生身」が私には辛い。」という感情に通じるものがある、と思う。なるべく<ワタシ>という生臭い切身を差し出したくない。どうするか...とは言え、何かをきちんと摂取・咀嚼して文がかけるほど時間は無い...

そこで有効な手段として火星人と握手がある。

火星人と握手!?

そう、今意識が一瞬火星に飛んだな?自分語りの最中でスケールをがんがん拡大/縮小させていく。これがコツだ。語りの最中でスケールを宇宙や銀河、人生や地獄に引き伸ばす一方で、突然にササクレヒトヨダケやポムポムプリン、昨日冷蔵庫の裏に落ちた空きペットボトルの蓋などミクロな視点にスケールを合わせていく。これで大抵の人間の脳は混乱する。都会にはシャトルエレベーターという地上から高層階まで一気に昇降する乗り物がある(乗ったことあるかな?)が、イメージとしては読者をあれに乗せたまま耳元で語りかける感じだ。もしかしたら語り掛けなくてもいいかもしれない。勝手に読者が気持ちよくなってくれる可能性さえある。

こうして徐々に徐々に話題をずらしていくのもテクニックだ。時折火星人とも握手しよう。

 

 マインクラフトを始めて、続かなかった。

単純に遊ぶ時間が取れないというのもあったが、視点の揺れでの酔いとゲームそのものの奥深さが合わなかった。時間が無限にあるとユックリ楽しめそうだが、有限だとゼロベースでまずは木のツルハシをアップグレードさせて...夜はゾンビに備えて...という工程はなかなかしんどい。え!?夜はゾンビが来るの!?という気持ちだった。忙しい人にとっては、自由度の高いゲームの入り口から見上げた果てしない道程が躊躇いになる。モンハンとかもそう。

前書きが長すぎた。主題はそこではない。

今は友人達が数十時間費やして建設した都市を観光している。これがめちゃくちゃ楽しい。綺麗に舗装された道路や、こんなところに猫ちゃんハウスが!と完全に気分はディズニーランドのナントカタウン...あのアニマル達が全員住んでいるところを模したエリア...チップチューンみたいな名前の...あれな!あそこを回っている気持ちだ。ヒャッホー!

でも効率の重視により動物がギチギチに詰められた牧場とか、ギチギチに詰められた村人とか、脱走が禁止されて檻の中にいる村人とか、闇の深い部分もある。そうだ、マグナ・カルタの登場に13世紀もかかったわけだ...。一方で、森博嗣の『血か、死か、無か?』に登場するネガティブ・ピラミッド(ピラミッドを逆さにして、その建造物部分を空洞にした感じの蟻地獄)を一人で建造し出す友人もいる。こういうの本当に造る奴がいるんだなぁ...。と、まあ小さなデジタルの世界で人類史が味わえる。歴史は無数の人々が積み上げたものであり、無数の人々は全て実存した個なのだ。

 

大きいパフェが食べたい。焼肉もいいな。食べるのに時間がかかる食べ物をダラダラ食べながら誰かと話す、というシチュエーションが好きだ。居酒屋はまさにそういう場所ではあるんだけど、料理と料理の間がかなり空いてしまうのが辛い。誰かと二人きりで話す時に、意識をその人だけに集中させてしまうと何となく気まずさがあって、パフェだとか肉だとかに3割くらいの意識を分散させておきたいのだ。昔、住んでいたアパートに数日間友人が泊まっていった事があったんだけど、酒の呑めない我々は毎夜マイクロピースパズルを埋めながらお互いの事を語り合った。理想的な時間だったと思う。三頭のイルカを完成させたところで、その友人は帰って行った。人との距離はそれくらいの方が上手く行く、とも思う。三頭のイルカの上の夜空はまた別の友人が埋めた。

 

 

祈りは可視光の光なりて

小さい頃、地球は丸くて人類はその地球に住んでいると初めて知った時、球体の内側に住んでいると思っていた。重力を知らないので、まさか平和のポスターの如く球体の側面に人が立てるわけがないと思っていた。ただ、そうすると世界(大陸と海)が丸いという情報と矛盾があるし、球体の中で階層を作らずに数億の人間が暮らすのも無理があるというのも分かっていた。結局、この考えは間違っているだろうと思ったままその時は流れた。人間の生命誕生の過程でも同じだ。受精の過程は謎だったが、人間の精子が空中を跳ぶはずが無いことくらい分かった。そうやってぼんやりと「多分おかしいな」と思いながら情報の更新を気長に待っていた気がする。今は知っている。

さて、今回はこの思い出と全く関係のない話をする。

 

家庭環境が最悪だったので、実は家族愛というものが理解出来ない。ただ沢山本を読んでいるので、一般社会での常識的な感情は知っているし、そういう内面処理の仕方をして別に精神的にも崩壊していない。知識が生きるための全てだ。

映画の家族愛の感動シーンは、宝物が壊れた場合や親友が死んだ場合などの想像と類推でなんとか理解してきた。ただ一つ言えるのは、あれは各人の身に根付いた愛への共感で底上げされた感動なので、そういうのが分からない人が見ても多分全然分からない。残念だ、残念か?それよりもホラー映画を楽しめる奴の右脳の方が可哀想だ。『リング』を見たあとにTVから絶対に貞子が出てこないって思ってリビングでスピースピー寝れる奴のこと、どう思う?想像力と感受性が死んでいる。この世には理解できないことの方が多い。

 

関係性にどんな名称が付いていても基本的には他人同士である。というのが大前提なんだけど、恋人だから/家族だから/夫婦だからと理想の距離感が先走っていて、人間関係に拗れが生じている。と思う。でも現実はそんな「みんな当たり前のコト、忘れてない?」の理論で語れるほど単調でもなくて、私は私の望む関係性があってただそれが名称に拘らないものであって欲しいというだけのものなのだ。言葉が常識を作り、常識は平凡を守る。世界は自分の理解の及ぶ範囲に収束されたし、という願いがただただお互いに犇きあっているだけだ。

 

命というよりも愛の単位でしか人は人を認識できない、と思う。その眼と脳が理解している目の前の生命体は何だ?

 

愛は祈りだ、と舞城王太郎は語った。

 

好き好き大好き超愛してる。 (講談社文庫)

好き好き大好き超愛してる。 (講談社文庫)

 

  

パワーワードとしての芋煮会と夢の中の透明な泥、捨てられた現実味、お腹すきすきザウルス

 寿司と芋煮会パワーワードだ。

何でも寿司とつければ面白くなるし、芋煮会も同様に面白くなってしまう。メカニカル寿司屋、バーチャル芋煮会、過酸化寿司疏水、地下芋煮会....なんだって面白くなってしまう。その根底に「芋を煮るだけの会、フツーやるか?マジで芋を煮てその芋を食うために集まるの?ンフっ...」という気持ちがある。そうだな、もう存在が面白いよ芋煮会。寿司は「あの、清楚で高貴な寿司にそんなワードをくっつけるのか!?」というギャップが面白さの根源だ。ただ大抵の単語との間にギャップがあるので、その合体は常に面白くなってしまう。

だから寿司と芋煮会を安易に使って面白ワードを作るのはセンスレスというか、面白さを素材に頼りすぎている。と思う。これは自戒。

 

よく、夢の中で「読もうと思っているのに読めない」「ブレーキを踏もうとしているのに踏めない」みたいな、物質の故障ではなく自分の身体の上手くいかなさみたいなもので何かが不可能になることがある。そのもどかしさと焦りで眼が覚める。寝覚めが悪い。夢の中の泥の所為だ。夢の中では時折、天空より透明な泥が降る。その泥があなたに纏わりついているとき、あなたの運動は阻害される。特に晴天の時が多く、雨や雪が降っている時にはあまり流れない。これは、善行を積み地獄の濁江より放たれた大鰌が、清水たる天においてその苦痛と欣喜ゆえに泥滓を吐くからだと言われている。今も地獄では多くの大鰌が天に昇るべく無償奉仕や喜捨に勤しんでいる。

 

最近、かなり疲れており、辛い話が辛い。

具体的に言うと、子供が死んだニュースとか惨殺死体の出てくる推理小説とか苛められて心に傷を負う映画とかを観たくない。もっと言えば国と国が争っていますだとかテロだとかデモだとか人間の諍い全ても見ていたくない。

精神が疲弊するので。

猫ちゃんが出てきて周りの人間を全員ハッピーにする映画とか、信頼しあったアホ仲間と楽しい青春を過ごしつつ最後に皆でハッピーになるアニメとかしか見たくない...。

Departure

Departure

 

Angel Beats!めっちゃ良かった。リトバス*1のあの男4人が延々アホやっているシーンあるじゃないですか?あれがほぼ13話続きます。最高じゃん。例によって主人公の親友キャラがすっげぇ良いんだよ...。

もうハッピーな人間しか見たくない!

ということで小説も火星で高次生命体に出会った話だとか、全部幽霊のしわざの殺人事件ミステリィしか読んでいない。ハッピーがない場合、現実味は捨てることにした。

 

私は人との対面コミュニケーションが非常に苦手だったが、中学の頃に『B.B.Joker』や『すごいよ!マサルさん』などのギャグ漫画を読み続け、「会話は基本的にボケてもう一度ボケてツッコめばOK」ということを覚えた。だいたい大学生くらいまでそれでやってきたし、概ね何とかなった。何とかならなかった奴とは友達になっていない。

しかし、最近は基本的に引き篭もっているので、対人コミュニケーションでの「ボケ/ツッコミ」が無い。一人で面白いことを言わなければならないとなると人間は壊れてしまう。その結果、恐ろしいことに生活における眠気や空腹に対して「ねむねむ侍」「お腹すきすきザウルス」みたいなことを言うようになってきてしまった。しかもこれが面白ぇの何のってガハハ...。

どうしようもない。Good day for 2台...ガハハハハハ

 

 

 

 

 

 

*1:よもやこのブログの読者でリトル・バスターズ!を知らない人間は居ないと思うが、Key製作のゲーム、リトル・バスターズ!のことである

希望的観測のアイスクリームと銀河ではないスペース、琥珀と夏の残響

家の近くが更地になるとサーティーワンアイスクリームが出来るかもしれない、と思う。


サーティーワンアイスクリームが特別好きなのかどうかは別として、様々なフレーバーがあるアイスクリーム屋がすぐ近くにある、という可能性はとても魅力的だ。たぶん実際に出来たとしても月に一度も行かないだろう。家の近くに美味しいワッフルを出すカフェがあるが、結局3年で4回くらいしか行っていない。いや、行かなかった。その店は先週潰れた。

いつだって気持ちがそういう方向に流れたら、自分は31のフレーバーから好きなアイスクリームを選んで食べることができる。そういう可能性が圧倒的優位を導く。何に対しての優位か?退屈だ。退屈な自分の人生に対する優位性だ。

  

有限のスペース(銀河ではない)に住んでいる。大抵の人間はそうだろう。その為にクローゼットに入りきらない服をだいぶ捨てた。結果的に今夏は10着くらいしか着回していなかった。無ければ無いで生活が成り立ってしまう。そうか...。前回の冬が終わるときに仕舞いきれなかった服を沢山捨てた。今年の冬に着る服があまり無い。無ければ無いで生活が成り立つらしいが、どうだろう。

 

聞き馴染みのある音楽しか聞かなくなった。

定額制音楽サービスに全く興味がない、というか生活に音楽を持ち込まない。 一人暮らしをしたときに初めて気付いたが、自分は一人きりになっても歌を歌うことはなかった。怖くないですか?一人の空間に自分の声だけが響いている状態...。

最近は車に乗るときとネットサーフィンの合間くらいしか音楽を聞いていない。知らない音楽から自分の好みに合うものを探すだけの意欲が無くなり、聞き馴染みのある音楽しか聴かなくなった。車にある音楽プレーヤーは数年前から更新されていない。琥珀のように音楽の時間を閉じ込めている。

 

夏の終わりになると必ず思い出す夏がある。

あの頃、三階建ての建物の中から一人何度と無く見上げた青空を思い出す。身体にまとわり付く熱気と、視界の端で揺れるカーテンまで覚えている。時折聞こえる賑やかな声は遠く、その場所には心地よい孤独があった。

そしていつも誰かを待っていたと思う。

 

毎夜の涼風が少しずつ夏を攫っていく。夏の残響のような長雨が続いている。

 

 

 

 

 

 

新しいセカイ系と音楽『言の葉の庭』

言の葉の庭』を観た。

 

濡れる都市の天空、煙る豊かな緑、揺らぐ銀色の水面が美しい。静謐な庭園と無干渉な都市を背景に、主人公二人の呟くような台詞と独白によって物語が構成されていく。俯瞰的なカメラが広い世界を映す一方で、そこにある現実の密度は低い。タカオとユキノのそれぞれの意識の外にあるものは殆ど描かれない。

こういう世界の構成が主人公達の識野と直結している物語のジャンルをセカイ系と呼ぶ。(諸説あるが)現実の生活では、今日の夕飯だとか他人への気遣いだとか預金残高だとか心を乱す夾雑物が多くて疲れる。雨の日の満員電車のようだ。疲れた心には、これぐらいの世界の狭さが心地良い。

 

...と思って観ていたのだが、中盤でこのユキノという女性の正体がはっきりしてしまう。その過程で「ハァ~?あいつ淫乱女じゃん」「マジでなんなん?ウッザ~」みたいなことを言う嫌な女達が出てくる。

 

え~~~せっかく狭い世界の清純を味わっていたのに何で嫌なヤツが出てくるんだ......。

 

ここで一気に気分が悪くなる。そこからは更に現実味を帯びた話になり、それぞれの正体や時間が一気に輪郭を持ち始め、感情の吐露が始まる。その間もカメラはあまりにも美しい豪雨を映している。視覚が受け取る透明度と感情が受け取る透明度に突然溝が出来て脳が混乱している。深いクレバスが私の感受性の大地を引き裂く。天国的な光が都市に降り注ぎ、物語はクライマックスを超え、ED曲「Rain」が流れてエンドロールとなる。架空の世累に殴られたショックで呆然としていると、映画が終わっていた。アッ...アア....。

 

....エッ.....?

 

何だったんだ。何なんだろう、何か間違っているような気がするが、それは私の心のような気がする。映画は正しいと直感が告げている。もう一度EDを見直す。

この映画にふさわしい歌詞を纏う音楽を聴きながら考える。

あ、この映画の主人公は雨なのか。

多分、タカオとユキノの関係とかそれぞれの思いとかオマケなんだ。雨に物語を与えるための、添え物なんじゃないか?

人間、どうでもいいんですよね。

世界が主人公のセカイ系なんだ。

なるほど~。

雨を主軸に映画を観ていくと素晴らしい映画なんだと実感する。雨が齎す人間達の些細な揺らぎ、緑への恵み。気象に物語と表情を持たせ、音楽へと導く。そういう映画なのだ。

 

映画はどういう目線で映画を見るかというのが批評に強く影響する。我々は独白する生命体を中心に物語を捉えがちだが、生命体による些末な揺らぎによって動じない(あるいは乱される)世界そのものを描く映画も存在する。

これは新しいセカイ系だ。

 

詩的で美しい映画だった。

 

 

今世紀最高の映画『リリカルなのはDetonation』

今世紀も未だ80年ほど残しているが、早くも21世紀ベスト映画が決定した。

リリカルなのはDetonationである。


「魔法少女リリカルなのは Detonation」コミックマーケット93PV


「魔法少女リリカルなのは Detonation」本予告

余りにも素晴らしい作品だった為に、鑑賞直後に「最高…」以外の語彙を失った。胸がイッパイで何も言葉が出て来ない。人は純度の高すぎる感情と向き合うと死ぬ。こうして安全に感想を言葉にするまでに1カ月弱の時間を要した。今やっと、少し気持ちが落ち着いて来たところである。

 

序盤のユーリとの戦闘でヴィータちゃんがサッと現れて「連携いくぞ!」からの、なのはさん砲撃シーン!こういう時、なのはさんの盾になるのはヴィータちゃんなんだよな〜〜そう、そうなんだよ!しかも「連携いくぞ!」の一言で各々がその場に合わせた最適な役割と行動が取れる…公安9課を上回る連携と信頼じゃないですか?そんなチームあります?っていうかチームでも無いんですよ。ただみんなお友達なだけ…

 

そしてとうとうなのはさんのバリアジャケットが光るようになった。

光っている装備は強い。光は強さの象徴。

ゲーミングPCもそう。

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異世界の科学技術を取り込み最強装備で望むなのはさん

最終決戦前、アリサと話すシーン。

「夏休み、宿題は全部みんなで頑張って7月中に終わらせて、8月はめいっぱい皆で遊びましょ」

うぅウッ...こんな何気ないシーンにもなのはさんやフェイトちゃんが凄く良い子達であることを描いてくる。なんて良い子たちなんだ。世界よ平和であれ、この笑顔が失われてはならない...。命とは善なるものなり。

 

最終決戦、ラスボスとの戦い。科学(フォーミュラ)と魔術の融合を目指し強化してきたラスボスの目の前に、当然のようにその融合を果たし、なおかつラスボスよりも高出力かつハイスピードでその力を揮うなのはさんやっぱりなのはさんはこうでなくっちゃ。自分の理想が目の前にあると知り、俄然その力を取り込もうと下卑た笑みを浮かべるラスボスも、その圧倒的な力と対峙し、やがて「何だ...何なんだコイツは!」と恐怖と驚愕の表情を浮かべる。やっぱりなのはさんはこうでなくっちゃ!!な!最高だぜ!

 

そんななのはさんも一瞬ピンチに陥る。敵の刃がなのはさんを切り裂く....

でもそこを!助けるのは!!フェイトちゃんなんですよ!!!

こういう時に彼方から駆けてきてサッとなのはさんを助けるのはフェイトちゃん、なん、で、す、よ!

そう、そうなんだよ!

その一瞬からすぐにフェイトちゃんとの連携。信頼...友情...火力...。前編にあたるReflectionではそれぞれ個々の見せ場を設けていたが、今回は連携による見せ場をふんだんに盛り込んでいて非常に良かった。前述のなのはさんヴィータちゃん、なのはさん&フェイトちゃんに加え、はやてちゃん&守護騎士も良かったね。はやてちゃんの広域殲滅が見られたのも嬉しかったし、ちゃんとその弱点のカバーを守護騎士の(普段活躍の場が少ない)シャマルとザフィーラが担っていたのもとても良かった。

前編Reflectionは色々キャラクター(ファン)へのサービスシーンを盛り込んだ所為で話のフォーカスが定まらず、説明がおざなりと評してしまった(リリカルなのはReflection - 千年先の我が庭を見よ)が、それは間違った評であった。前編・後編の2部作なのでそれは仕方なかったんやね。映画を前半分だけ観て評価を決定させてしまうなど愚かなことをした。愚昧愚昧。Reflection&Detonation、最高の映画です。

 

そして最後のなのはさんデブリと共にボロボロの身体で宇宙を漂うシーン。

結局、なのはさんが救うものは地球そのものになった。

「私は皆を守れたかな…」「なら満足…」の呟きに、子どもの頃の自分が応える。

「本当に?ならあなたは自分のことがあんまり好きじゃないんだね」

そうだ、正しい力の使い方をする果てしなく強い者にとって、常にその問題があった。自己犠牲に近い献身で世界を救う。世界には美談だが近親者にとっては悲劇だ。友情と正義の葛藤は戦う者達にとって永遠の課題であった。それを、ここで、ここで出すか!

皆を助けてあげるような自分じゃないと満足出来ない、それって寂しいね…の呟きに今のなのはさんはこう答える。「でも魔法と出会って、ちょっと変わったかな」

魔法と出会って、ーーー自分の力を伸ばし続ける楽しさがあって、誰かを救えるだけの大きな力を手に入れたからこそ、その力に対して、こう言える強さ。誰かを救うその過程で強い力が必要だったけれど、最終的に彼ら(フェイトちゃんや闇の書)を救ったのは、「仲良くなれないかな」「お話がしたい」と言い続けて寄り添うなのはさんの心だった。それがちゃんと自分でも分かったんだ。そしてそういうなのはさんの事が皆大好きで、なのはさんを必要としているんじゃなくて、「仲良くなろう」って言い続けてくれた結果として傍にいるんだ。それもちゃんと自分で分かったんだ…。

ぅおおぅおおぉぉぉ(泣)

しかもその色んな気持ちを自分で見つめなおして、はやてちゃんに返した言葉が、たった一言、

「私はとっても、幸せだね...って」

ぅおおんおおんおんおんおん(号泣)

ずっと続いてきたなのはシリーズ…TV版、リメイク映画、全部楽しかったよ…。でもこのリメイク映画はただの改良されたファンサービスだと思ってたんだよね。(前編のreflectionでも述べたが、良質な公式同人のようなものだと思ってた)

浅ましい。

そんな訳が無かった。自分の愚かさに反吐が出るよ。ちゃんと、

なのはシリーズに答えを出してきた。

この映画が集大成なんだ。この最後の5分でこの映画は2兆点から7京2兆点の映画となった。このシーンだけ10回観ました。7京2兆点の映画、他に有ります?無いでしょ…今後100年もなかなか出ないよ。

 

なのはシリーズでは最初に敵だと思っていた相手にも、対立するだけの理由があるというのが大前提だ。なのはが何度も何度も相手の事情を汲み取ろうと立ち向かい、寄り添い 、最終的にその対立理由が何らかの問題(フェイトの母親や闇の書の暴走プログラムなど)によるものだと知る。そこでじゃあそこを一緒に解決しよう、となる物語なのだ。勧善懲悪の物語ではない。

なのはさんは迷わない。

ずっと「話し合って、友達になろう。」と言い続けてきた。話し合いもちゃんと「あなたのお話を聞かせて?」から始まる。自分の主張よりもまず、誰かの話を聞くことが大切なんだ。

何が大切か分かっていて、それを自分で正しいと信じている。だから迷わない。

迷わないから、強い。

 

Reflectionを観た後で私はこう言った。

多分このアニメはどのキャラが好きとかそういうのを全部無視して、本来は「なのはさんの強さとは何か」を描く映画なんじゃないかと思う。

間違いない。

魔法少女リリカルなのは』、これは「なのはさんの強さは何か」ということをずっと描いてきたシリーズなんだ。このDetonationは観客を真理に導く物語だった。うっうううっ...うっうっ...ありがとう…ありがとう…

ありがとう!!!リリカルなのは、一番好きなアニメです!

 

最後に、色々負傷したりしたけど皆ちゃんと怪我は全快したし、猫ちゃんたちもちゃんと戻れたし、登場人物全員が笑顔でハッピーなエンドを迎えた。そこもこのリリカルなのはシリーズの良いところで、ちゃんと全員が、色々あったけど最後は笑顔で楽しい未来に辿りついたよって終わりになるんだよな。その色々あったけど...が無かったことにはならないことも、ちゃんと笑顔の裏で分かってる。良い映画だったね。だって皆、笑ってるもん...うっうううっううう...良かったね、良かったね....。

フェイトちゃんもそうだし、はやてちゃんや守護騎士もそうだ。みんな色々な闇を乗り越えて、周りを傷つければその代償をきちんと払い続けて現在がある。でもその過程でそれぞれが「自分は何を信じて、何を大切だと思って生きていけばいいのか」を探し当てていく。 なのはさんの強さを受け取って、それぞれのキャラクターがそれを探しに行くんだ。フェイトちゃんがレヴィの前で「大丈夫、私、強いんだから!」ってあんな元気で前向きな笑顔で言うのみて、泣いちゃったよ。強くなったね、フェイトちゃん...。良かったね...。うっううっうううう...ぇっぇっええううう...うっ...温かい...。

本当にさ、なのはシリーズをずっと観続けてきて、幸せだったよ。

リリカルなのは、一番好きなアニメです!

リリカルなのは、一番好きなアニメですって言わせてくれてありがとう!!

 

www.nanoha.com

 

 

 

タイトルから望む物が全て在る『機忍兵 零牙』

 

機忍兵零牙 (ハヤカワ文庫JA)

機忍兵零牙 (ハヤカワ文庫JA)

 

凡そこの世に非ず、別の世界より来たる者を忍びと云う――数多の次元世界を制する謎の支配者集団<無限王朝>と戦い続ける伝説の忍び〈光牙(こうが)〉。その一人、零牙(レイガ)に与えられた任務は亡国の姫と幼君の護衛であった。亡命の旅路を急ぐ一行の行手に、無限王朝麾下の骸魔忍群が立ち塞がる。激突する機忍法、その幻惑の奥義の数々よ。生き残るは果たして光牙か骸魔か。絢爛たるゴシック世界、生と死の無明の狭間に展開する死闘の粋!

 

朗々と謡われるように紡がれる情景描写は活劇のようである。識字には爽快感さえ感じるだろう。

....尖塔犇く街々をなぎ倒し機巨獣が紅蓮の炎を吐く様や、手から光線を出す忍者が雑兵を一掃する様などが、鮮明に脳内に再現される。数々のアニメや映画を摂取しているオタクであれば更に容易かろう。イッパイ観てきただろ、そういうの。それだよ。

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これはメカロボット・サムライを一閃する侍。ええアニメやったね

ストーリーも衒い無く、王道を進む。傲慢で不遜な強い悪役幹部、戦場で徐々に芽生える友情と理解、貫く強い意思、お決まりの台詞に聞き慣れた前口上……そうだ、知っている。読者のオタクメモリーをビンビンに発火させてくる。俺達は―――知っている!この流れを!!そう、これはお前の中に刻み込まれたオタクメモリーに呼びかける「虐殺器官」みたいな小説だ。(この文章そのものもお前のオタクメモリーに呼びかけているぞ)

kiloannum-garden.hatenablog.com

零號琴もそうだった。

オタク・メモリーに呼びかける作品を摂取するのは気持ちイイ。オタク・メモリーはそれぞれが後天的に得る性感帯みたいなものでだからな。

 

とはいえ、個人的には手放しに絶賛できる作品ではない。

零牙登場時の、颯爽と雑兵を倒し野に降り立ち「零牙参上」と言い放つ....そのクールさに痺れていたかったのだが、読み進めるにつれ、クールさは薄れてゆく。零牙も含めた「光牙衆」とは忍でありながら情熱と優しさを持つという異色のヒーローであると分かる。また、光牙の持つ誇りと絆の源泉たる『記憶』の設定も個人的には蛇足感が強く、その激情は「忍」とはこのような存在でよいのか?という疑念もあった。

しかしこれらは個人が、読む前に本作をどう想像して、そしてどう「期待通り」であったのか?という視点にすぎないので、本作の批評には関係ないと断言して構わないだろう。

そうではない。本作には

圧倒的に艶が足りない

足りないんだよ。

侍に反して忍と言えば、邪道たる忍法にて抹殺…その手法には純粋な戦闘力だけでなく手練手管の、刃だけではない殺傷力を持つものもある。時にそれは単純な美でもって劣情を罠に誘い抹殺するものであり、情欲とともに致死の毒息を吐く忍法である。

要はエロ。

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圧倒的な艶を誇る例(バジリスク 甲賀忍法帖より)

そういうのが無い。魅力的な女忍、蟲惑的な女悪役が居てしかも主人公は男(忍)であるにも関わらずエロ要素が無い。別にモーションかけろって言ってるんじゃアないんだよ!山田風太郎リスペクトが感じられる箇所が多々あるものの、一方でその核とも言える艶の要素が全く感じられない。(山田風太郎の核は艶です)

艶とはエロだけでなく、死もまた同じである。死と隣り合わせの術を使う時、そこに艶がある。生命の価値を超える凄まじいまでの念が、その生に淫靡な華を飾る。そういうのも無いンだよな~~~!「お前の技は凄い」「敵ながらやるなお主」というやり取りはあるんだけど、その「凄い技」に対して特に代償が無いんだよな~~~。

その点が非常に残念であった。

 

とはいえ、『機忍兵 零牙』というタイトルからイメージされるワクワク要素は全て通り詰まっており、最初の5ページは期待して開いた読者の心を鷲掴みにするであろう。特に「零牙参上」のくだりには、胸踊るはずだ。

所謂「ニンジャ」と呼ばれるエンターテイメントな存在と、古典的な忍者モノの融合といったところだろう。続編も期待できそうな終わりである。

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