火星人と握手、踏襲される人類史、そして完成した3頭のイルカ

何も書くことがない。何故なら日々特に何もインプットしていないからだ。為すべき事を為し、そして眠る。そういう生活だ。それでも何か書いて...というよりは誰かに「読んで欲しい」という気持ちがあって、ぼんやりとキーを叩いている。ただ、何もインプットがない状態で書くと、ネタを自分の内側から出すしかなくなる。曰く、「自分の切り売りに過ぎない自分語り」になってしまう。

6000 字埋めるに足る内容が必要になる。小説でディテールを描写する必要があるように、それ以外の文章でもテーマを掘り下げないといけない。そうすると書く以前の取材や調査をしっかりやらないとお話にならない。それ抜きに記事を埋めようとするとスカスカな「いかがでしたか?」や自分語りをやるしかなくなってしまう。自分語りが自分の切り売りに過ぎないことは言うまでもないです。

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この記事でいうところの「自分の切り売り」へのネガティブな感情については、以前

高尚な感傷で凍傷 - 千年先の我が庭を見よで書いた「誰かの過去の一瞬を除かせる生々しい単語が、そこから手繰り寄せられる「生身」が私には辛い。」という感情に通じるものがある、と思う。なるべく<ワタシ>という生臭い切身を差し出したくない。どうするか...とは言え、何かをきちんと摂取・咀嚼して文がかけるほど時間は無い...

そこで有効な手段として火星人と握手がある。

火星人と握手!?

そう、今意識が一瞬火星に飛んだな?自分語りの最中でスケールをがんがん拡大/縮小させていく。これがコツだ。語りの最中でスケールを宇宙や銀河、人生や地獄に引き伸ばす一方で、突然にササクレヒトヨダケやポムポムプリン、昨日冷蔵庫の裏に落ちた空きペットボトルの蓋などミクロな視点にスケールを合わせていく。これで大抵の人間の脳は混乱する。都会にはシャトルエレベーターという地上から高層階まで一気に昇降する乗り物がある(乗ったことあるかな?)が、イメージとしては読者をあれに乗せたまま耳元で語りかける感じだ。もしかしたら語り掛けなくてもいいかもしれない。勝手に読者が気持ちよくなってくれる可能性さえある。

こうして徐々に徐々に話題をずらしていくのもテクニックだ。時折火星人とも握手しよう。

 

 マインクラフトを始めて、続かなかった。

単純に遊ぶ時間が取れないというのもあったが、視点の揺れでの酔いとゲームそのものの奥深さが合わなかった。時間が無限にあるとユックリ楽しめそうだが、有限だとゼロベースでまずは木のツルハシをアップグレードさせて...夜はゾンビに備えて...という工程はなかなかしんどい。え!?夜はゾンビが来るの!?という気持ちだった。忙しい人にとっては、自由度の高いゲームの入り口から見上げた果てしない道程が躊躇いになる。モンハンとかもそう。

前書きが長すぎた。主題はそこではない。

今は友人達が数十時間費やして建設した都市を観光している。これがめちゃくちゃ楽しい。綺麗に舗装された道路や、こんなところに猫ちゃんハウスが!と完全に気分はディズニーランドのナントカタウン...あのアニマル達が全員住んでいるところを模したエリア...チップチューンみたいな名前の...あれな!あそこを回っている気持ちだ。ヒャッホー!

でも効率の重視により動物がギチギチに詰められた牧場とか、ギチギチに詰められた村人とか、脱走が禁止されて檻の中にいる村人とか、闇の深い部分もある。そうだ、マグナ・カルタの登場に13世紀もかかったわけだ...。一方で、森博嗣の『血か、死か、無か?』に登場するネガティブ・ピラミッド(ピラミッドを逆さにして、その建造物部分を空洞にした感じの蟻地獄)を一人で建造し出す友人もいる。こういうの本当に造る奴がいるんだなぁ...。と、まあ小さなデジタルの世界で人類史が味わえる。歴史は無数の人々が積み上げたものであり、無数の人々は全て実存した個なのだ。

 

大きいパフェが食べたい。焼肉もいいな。食べるのに時間がかかる食べ物をダラダラ食べながら誰かと話す、というシチュエーションが好きだ。居酒屋はまさにそういう場所ではあるんだけど、料理と料理の間がかなり空いてしまうのが辛い。誰かと二人きりで話す時に、意識をその人だけに集中させてしまうと何となく気まずさがあって、パフェだとか肉だとかに3割くらいの意識を分散させておきたいのだ。昔、住んでいたアパートに数日間友人が泊まっていった事があったんだけど、酒の呑めない我々は毎夜マイクロピースパズルを埋めながらお互いの事を語り合った。理想的な時間だったと思う。三頭のイルカを完成させたところで、その友人は帰って行った。人との距離はそれくらいの方が上手く行く、とも思う。三頭のイルカの上の夜空はまた別の友人が埋めた。