聲の形

始めに言おう、凄く良い映画だった。
テーマソングのタイトルも、PVも恋愛を強く匂わせているが、この映画の本質はラブストーリーではない。
人生における「何をどうすれば正解だったのか?」という過去に対して「答えは無い」ということを描く物語なのだ。
重度の難聴を持つ少女(西宮)と、そのヒロインをかつて苛めていたが、ふとした切欠でいじめの矛先が自分に向いてしまった少年(石田)。
主軸として描かれるのはこの二人が高校生となって、それぞれに抱える自責の念とどう向き合っていくのかという様態だ。
結果としてその結末は「愛情」という感情に落ち着くというだけで、お互いの愛情の絡み合いを描くものではない。
この物語は、「人間関係に消極的な主人公たち」の反応を通して、彼らをとりまく人々の(そして彼ら自身の)「人間の不完全さ」を浮き彫りにする。

これ以上あらすじを脈々と書くのは徒に文字数を増やすだけだ。
すばやく感想に入ろう。

1)キャラクターたち
思いやりの美しさというのは、その中にあるエゴイスティックな自尊心の不透明さに依存する。
それぞれが友人、永束にとっての石田や真柴にとっての川井や、石田にとっての西宮などに向ける「思いやり」が単純に美しいだけのものではない事をかなり強く描いていると思う。
永束は思いやっているようで、その実「石田」ではなく自分と石田の間にある友情を見ているし、
真柴は主要人物の過去を知らないが故に、狭い目線で善悪を判断している。(視聴者にはそう映るように出来ている)
石田と西宮もお互いに「自分の存在が相手を傷つけているのでは」と思っているが、その実「相手を気遣っている自分」を守る事を優先している。
...その結果が西宮にとっては花火大会の夜だったし、石田がそこに気付いたことがこの物語のエンドだった。

でもそういうもんなんだよなぁ。そういうものってのをきちんと描いているんだよ、この映画は。
そういうことに少しずつ気付いていく思春期の中で、エゴイスティックな自分に嫌気が差してくるし、そういう自分とちゃんとどうやって上手く付き合って「生きていくのか」って結論を出すものなんだ。
石田の「君に生きるのを手伝って欲しい」はそういう意味だ。
自分と上手く付き合っていけないから、助けて欲しいのだ。

一方で、それにいち早く気付いて、結論出したのが植野だ。
物語の外側で、彼女は小学校から高校までの間で、「自分という人間はどういうモンなのか」をきちんと理解して成長している。
彼女は「障碍者を苛めていたのではなくて、西宮という少女が性格的に嫌いだったから苛めていた」という自分に気付いていく。
それは障碍者差別をしないという意味で高評価のようだけど、気に入らない女の子を苛めているようなヤツで、こいつの根本にある性格の悪さは自覚的になったかそうでないかというだけだ。
高校生になって、それを自分である程度理性的にコントロールできるようになった、というのが最後の「ばーか」だ。あれは友情の良いシーンではない。人間が成長しただけだ。

そういう意味で、川井は小学生から高校生まで成長しなかったキャラクターであろう。
自分のことしか見ていない、というキャラクターであるが故に変化しなかったのだ。

2)そこに流れる時間
先ほど、植野が物語の外側で成長している、と書いた。
そういうことを描けているだけでこの映画の表現力が如何ほどのものか分かるだろう。
カメラは主人公を映していて、刻々と時間は流れていくが、カメラが当たっていない場所でも脇役達の時間も流れているのだ。
それをきちんと描けるってどういうことだよ。
時間が全てのキャラクターにとって平等に、連続的に流れているものであるってことをきちんと気付かせるってどういう手腕だよ!

3)音と光とモーメント
躊躇いや哀しみや様々な感情を、夜や水や鯉や空や風や微笑みで描ききっていく。美しい。
それはすなわち、言葉に出来ない気持ちを言葉にせずに語り、我々はそれを言葉にせずに理解できるということだ。小説にはできない。
言葉ではない形で理解するというのは難しい。
分かるか?感情は揮発性で言葉にすればそれはたちまち気化していく。
それを転移させずに伝えるには、こうして芸術を解さねばならないのだ。
最高のアニメーションを通して、我々は純度の高い感情を感じることが出来る。

4)人生は続いていく
最後にもう一度言おう、本当に良い映画だった。
扱うもの難しさ(障碍だとかいじめだとか)というものを、そこをテーマとせずに、それを踏まえた上での人間達の有様を描いていく。
物語の転機は続き、我々は考えさせられる。
「西宮がああだったからこうなった?」「あの先生の行動はあれで良かったのか?」「石田はあの時何と答えれば良かった?」「結弦はどうすれば良かった?」
でも、答えが無いことに気付くのだ。頭の中で「やった/やらなかった」反対のシミュレーションをしてみても、それで正しいかどうかの判断ができない。
「あの時どうすれば正しかったのか?」の問には「答えは無い」というのが答えだ。
でも、人生はきちんと間違えてはいけない運命もあって、それが花火大会の夜なのだ。
助けるって選択のことではなくて、「あの場所に居合わせる」っていう偶然の方だ。(その偶然も誰かの思いやりで出来ている)
そして、そういう「間違えてはいけない運命」を間違えなければ、だいたい人生は上手くいっていると言って良い。上手くいくんだ。
それがフィクンションのハッピーエンドなのだ。
でもこの物語の美しいところは、映画は一応ハッピーエンドなんだけど(最後に主人公が笑っていれば、それはハッピーエンドだ)、ちゃんと人生ではエンドじゃないってことを描くところにある。
「これから(も)生きていく」ということを無意識に見据えて、皆それぞれの現実に至る。
この映画はとある人間達の人生の一部にカメラをあてて、それを描いた映画なのだという余韻を残していく。
人生ってさ、思春期の先も続くんだよ。

人は不完全であり、時間は平等に流れ、人生は続いていく。
当たり前のことを129分の映画の中で、フィクションの中で当たり前にする。
そういう凄い映画なのだ。