物語の被写界深度

ライトノベル(或いはアニメ)の『ソード・アート・オンライン(SAO)』において主人公であるキリトは無敵ともいえる強さを誇る。
MMOゲームの世界で、PvPだったりPvEだったりと戦うシーンが多いのだが、主人公の主人公たる勝利を上げ続ける。
ゲーム内最速の反応速度を持つ者にのみ付与される特殊スキルを有していたり、30人vsキリトの戦いを平然と捌ききってみたり、強いボス敵を倒す戦いでは要となったり。
昔はハァーラノベ主人公補正ですかァという気持ちだったけど、現実にE-spportsを観ていて思うのは「そういうプレイヤーは存在する」という事だ。
EVO2017のときど選手は決勝でドラマのような展開のゲームで観客を魅せたし、unkillable demon kingとまで呼ばれたFaker選手も3人のgunkを1人で綽綽と捌き切っていた。
このSAOにおいてキリトは「そういうプレイヤーは存在する」「そしてこの物語ではソイツが主人公」というだけの事なのだ。

「そしてこの物語ではソイツが主人公」...という事についてずっと考えていた。
大抵の物語の主人公の人生は物語が面白くなる為に、あわや大惨事に奇跡が起こったり、偶然が重なって成功があったりする。
物語の中に通り過ぎていく街や人がある。50ページ目で出てきたあの名前の女性は、死んだ描写も無くその後300ページ一切出てこなくなる。
主人公を中心にするカメラのフレームからは外れたのだ。
そして思うのだ、これは主人公の為に世界があるのか?
世界が先なのか?主人公が先なのか?
「そういう人物は存在する」「そしてこの物語ではソイツが主人公」というだけなのか?
一過性の登場人物たちの物語も確かに存在しているのか?
でもこれはただのノンフィクションであって、そもそも存在する世界ではないのだ。
その疑問そのものが本来存在しない筈なのだ。
頭に浮かぶ疑念のループを振り払う。

夢の中では自分が自分であることを忘れ、心ゆくままに舞い踊る胡蝶となる...。