茨城県に暮らす三人の女子高生の大麻栽培を描く『万事快調』

なーんもない町、しょーもない家族、どーしようもねぇ学校、という面白さが死んでる地元から出るには金が要る。金!律儀にバイトしてお金を貯めて桜吹雪とともに普通電車に乗って新しいスタートが切れるような場所、なわけがない。お金が貯まるためには、まず正常な環境がいるのだ。正常って知ってるか?私もよくは知らない。

思春期にとって、自分が世界に取るに足らない存在であると認識するのは毒であるが、面白さが死んでる町においては致死毒である。三人の少女たちはそれを本能的に分かっているから、生き残るための武装として過剰な自意識を纏う。 ラップ、映画、小説、漫画……文化は私たちを特別にしてくれる。

でもそういうのとは別に、やっぱり金が要るんだよなア!金金金!!

 

これは、3人の女子高生が高校の屋上ビニールハウスで大麻を育てる話である。

「女子高生が大麻を育てる話だ」と言ったとき、一番の問題はどうやって女子高生に大麻をゲットさせて、彼女が大麻を育てようと言い出すか、である。女子高生が大麻を育てるのが面白いんじゃない。そこに至るまでが面白くあれ、というのがこの本を手に取る読者の真の期待であろう。

大丈夫、ちゃ~んと自然な流れで女子高生が大麻を育てることになる。

三人の女子高生は協力して大麻を育てることになるが、たぶん三人ともお互いのことを友達とか仲間とかいう甘ったるい関係で呼ばれたくない、と思っている。そういうポカポカしたものは、ここがキラキラした場所だと認めるようなものだからだ。だから会話や気持ちには糖衣が一切ない。めちゃくちゃな会話が飛び交う。 彼女たちはつねにアサッテの方向に牙を向いている。でもその粗暴さと自分の生活圏を面白くするための剥き出しの威嚇は、小説ではテンポよく小気味良い応酬となる。つまり、読んでてすっげぇ楽し〜い!暴力的に見えて、無秩序ではなく、相手に許された粗暴さに留まるのも心地よい。そこには敵ではない奴を傷付けないだけの配慮がある。

そう、ここにあるのは「敵ではないやつ」という距離感だ。でもその距離感は大事なのだ。敵ではない、ということは。

 

弟も狂っているがそんな傍流はストーリーの足を引っ張らない。意味のない緊張感があり、家族でボウリングという気持ち悪さのギリギリをねらったほんわかストーリーがあり、ハーヴェイミルクとかいうエピソードがあり、 基本的に彼女たちの周りにある何もかもがズレている。

でも世間とズレ続けることが彼女たちのアイデンティティなのだ。だってこの世間というのは彼女たちにとってはつまんねーこんな町のことを指すから。小説はストーリー単位でそれを体現する。

 

私も、面白さが死んでいる町で、澁澤龍彦を読みながらデカい川沿いを歩き、デカいマックスバリュで休憩してまた川沿いを下ることで放課後の3時間を潰したていた経験があるから、全てが分かる。何よりも面白いギャグ漫画を知っているということが自己肯定感になる、よく知っている手触りの自意識。っア"〜〜〜!でもそういうのを思い出して傷付く時代はもう終わってるから、今それでモガいてて大麻を育て始めてて変な希望に満ちている女子高生を見るのは楽しいだけだ。ヒャハ〜!

 

そこには私が超えられなかった要らないタイプの輝きがあり、私には転がって来なかったタイプの狂気がある。何もかもがめちゃくちゃだが、なんか、うまい具合にも転がっていく。最終的には。そんでやっぱどうしようもなくなったら燃やすに限る。

「ニューロにはさ」

「うん」

「負けてほしくないな。勝ち逃げして欲しい。不条理とか、こんなしょうもない町とか。そういうの全部無視して、やりたいことだけやってて欲しい」

「うん。そのつもりだよ。ジャッキーもね」

だって万事快調って名前の小説だからなァ、これは!