ペルソナ5を始めた。
世間ではP5Rが出ているが、今更ながらペルソナ5(PS3)をプレイしている。我が家にPS4はありません。
今はもう5人目のパレスでオタカラを盗んだところだ。これからどうなるんだろう、佳境である。
RPGはゲームという骨をどれだけ物語の肉の中に隠せるか、というのが没入感における全てだが、その点においてペルソナ5は至高の位置に立つ。一プレイではなく体験が作られていくのだ。
戦闘からダンジョン捜索パートに切り替わる時のresult表示、メニュー画面表示といった機能面での世界観への配慮から、要所にある「自ら選択して人生を進めている」と思わせる主体性への適度な刺激。
「心を盗む」という攻略におけるメインテーマも、単調な繰り返しではなく、切り口を変えてその深層を考察させる構成になっている。
「ゲームで遊んでいるのだ」と思い出す隙がない。
プレイ中の緊張感が、責任感が、快感が、義侠心が、疑念が主人公…ジョーカーと混じり合い、“私”の体験が作られていく。
今日は何しよう?これはどういう事なんだろう?明日は誰と過ごそう?
嗚呼!私は今、確かに学園生活と怪盗生活の二足の草鞋を履いている…!
楽しい、最高に楽しい!!
そう思ってずっとプレイしていた。
でも春が終わり梅雨が明け夏が来て、秋になり、
だんだんと没入出来なくなってきた。
何故か…?
ジョーカーがかっこ良すぎるのだ。
敵に包囲された中を囲い崩しで脱出する時のフィンガースナップ。
障害物にジャンプするときの軽やかな身のこなし。
バトンタッチのときのふっと不敵に笑う表情、しぐさ。
仲間たちが寄せる信頼。飄々としつつ、たまに見せる子どもっぽい感情。
気付けば私の心はジョーカーを離れ、ジョーカーを見ていた。
コープ活動も、最初は「コイツと仲良くなろう」「この人のことをもっと知りたい」という気持ちでやっていたのに、だんだんと「コイツといる時のジョーカーの表情がみたい」「この人と過ごした時のジョーカーのことを知りたい」という気持ちで進めるようになってしまった。
そう、ジョーカーの事を好きになってしまったのだ。
私が、ジョーカーを好きになってしまった。
恋とは自分でないものを好きになるその心を言う。恋をしてしまったならそれはもうあなたではない。恋とは感情の同化である一方で、心は異質なものである事を明確にする。
私が……否、ジョーカーが私ではなくなっていく。混じり合っていたものが分離されていく。
そうだ、私はジョーカーになりたいんじゃない。彼の傍で彼を見ていたいんだ。
混ぜてくれ!その青春の中で脇役をやらせてくれ!
杏が笑い、竜司が頷き、真が微笑み、祐介が見つめ、双葉が手を伸ばす。こちらに向かって。
私に、向かってだ。
……私の居場所は「ジョーカー」でしかないのだ。
切なく、苦しい。好きになるほどに、少しずつジョーカーと私が乖離していく。物語が“私”のものではないということが露わになっていく。
ゲームはなおも素晴らしく、自分がジョーカーであれば本当に楽しめるであろう世界に引き込んでくる。面白さは加速度的に増加していく。
でも恋心がそれを苦しめ、引き裂いていく。つらい。
好きだ、ジョーカー。
私はその隣に立ちたかった。
私はもう主人公になれない。ただのプレイヤーだ。
Take your heartと書かれた予告状を横目に、私は胸の痛みを抑える。
……ジョーカーが女性だったら、こんな想いを味わわずに済んだのだろうか。
P3Pだ。
ペルソナ3は同じく男主人公のPS2ゲームだが、PSP版になった時にオリジナルに加え、女主人公版でも楽しめるようになった。当然、シナリオの要所と展開は殆ど同じだ。ただこの「性別の違い」が見せる体験は、予想を遥かに裏切る面白さがある。
ペルソナシリーズは、いわゆるダンジョン攻略的なRPGモードと学園生活というシミュレーションモードが表裏一体となり、お互いに影響力を持つというシステムが一番の魅力だ。日常生活での友人との関係性の深度はそのままRPG戦闘における強さに影響する。この「日常生活での友人との関係性」が、男女でこうも違って見えるのかという所が非常に面白かった。
男女で交友関係が多少変わるのだが、ストーリィのメインメンバー(戦闘メンバー)と交友するのは変わらない。そうすると、男主人公では親友だった順平君が、女性主人公では「友達以上恋人未満」の距離感に変わっていく。もちろん態度も変わる、こちらにかける言葉も変わる。逆に女性同士なら恋人ではなく親友になる。「君だから話せるんだよ」と言われた時、自分が男性である・女性であるときで自分が読み解くその言葉に含まれる感情、自分が期待する関係性、自分の想いが変化する。このプレイヤー側における意識の変化は「関係性の構築が主人公の力になる」というペルソナシステムにおいて非常に核心的(革新的)だと思う。
残念ながらこの男女主人公システムはP3Pのみで、のちのP4、P5では続編も含めて採用されていない。しかしながら、この”違い”が齎す世界の見え方の相違こそが”ペルソナ”であると思う。
そして、女性主人公だったなら。
きっと「女性である私」に笑う祐介や微笑む竜司を好きになれた。
杏と真にヤキモチを妬かずに、親友になれた。
黒ロングコートが似合っていてフィンガースナップが様になるかっこいい“私”になれた筈だ。
ペルソナ6ではぜひ採用して欲しい。
ATLAS殿、よろしくお願いします。
ペルソナ5の中は10月。
疼く恋心に身を刺されながら、クリアまでプレイする。甘い地獄だ。
あとどれくらいこの切なさは続くのだろう。