「ここはそういう場所なんだよ」

ここは、教室だ。

中学…2年の頃の。私のクラスの人数は奇数で、どうしても部屋の右後ろの奥だけは一人席だった。席替えではハズレのような扱いの席だったが、先生の目からも遠く、それでいて中庭から流れ込む風は心地良く、隣に気を使うこともないその自由気楽なその席を私はとても気に入っていた。

音楽の先生とやらが教室に入ってくる。

若い男の先生だ。授業だというのに、かつて自分がラップをやっていた話をしている。教師というよりは、街を歩いている気のいいお兄さんみたいな雰囲気で、「授業をしにきた」というよりも「ちょっと立ち寄りました」みたいな自由さがある。

「今日はみんなを素敵な場所に連れていくよ」

ぼんやりと聞き流していた先生の言葉の中で、その言葉だけが耳に残った。初夏の空気の中、爽やかな風が教室に入り込む。

 

風の中に、緑の匂いが混ざっている。

私は家の中にいる。家と言っても、外壁は殆ど取り払われていて、オープンな空間になっている。風と光を取り入れるためだろう。照明がなくとも、外からの光が充分に部屋を照らしている。素足に滑らかな板が心地よい。優しく温かみのある木の家だ。ソファや机はあるものの、生活のためのような家具は殆どない。どこかで小さな鳥の鳴き声がする。静かだ。長く充実した余暇を過ごすには最適の家だろう。いいな、と思った。

クラスメイトたちも同じようで、あっちを見たりこっちを触ったりとはしゃいでいる。私はふと一枚の薄手の布…おそらくタオルケットか何かを触ってみて気付く。

あ、これは夢か。

タオルケットを掴んで、試しに浮かんでみる。

ふわり、と私の身体は中空に浮かぶ。ちょうど部屋の中庭は屋根がない。唖然としているみんなの顔が面白くて、そのまま10mくらい上まで飛んでみる。気持ちいい。柔らかな風がタオルケットをはためかせていて、まるで踊っているみたいだ。私は楽しくなって、そのままタオルケットとダンスを始める。

楽しい。気持ちいい。

もう周りの事なんて忘れてぐるぐると飛び回る。

夢の中で飛ぶ事はよくあるけど、こんなに楽しい気持ちで空を舞うことってあんまり無かったかもしれない。

だって空は青くて、こんなにも広い!

 

しばらくしてから下に降りると、みんなの白けた目に迎えられる。

そうか、そりゃそうだよな。

まぁいっか、と思って家の中を探索しようとすると先生がやってくる。そうだ、私たちは彼に連れて来られたんだった。

「一人、上に来てみなよ。誰でも良いよ」

その声に、ハイハイハイ!とクラスのムードメーカーが名乗りでる。こういう時に、周りの意見を伺ってから手を挙げる奴とそうでない奴の差が出るのだ。予想通り、その子が選ばれる。

「良いよ。◯◯、おいで」

先生がその男子生徒を連れて2階へ上がっていく。皆は特に気を留めずに、お喋りしたり寛いだりしている。2階?2階があるのか。私はそのカタマリから外れて、階段を探す。

隠されているわけでもなく、大人が3人横に並んで歩けるくらいの広い階段が見つかる。

2階には和室があって、円形の窓もある。その向こうに、広いベランダが見える。ベランダといってもドッジボールが出来そうなくらいには広い。ベランダも板張りで、太陽の光を直接受けて、白く眩しい。

和室の周りをぐるっとまわると、ベランダへの入り口なのか白いスニーカーが一足置いてあった。

この先にあの男子と先生がいるんだ。視線が絡まないように少し覗くと、二人の背中と後頭部が見える。何か打ち明け話でもしているような雰囲気だ。

バレないように慌てて引き返す。

「誰かいるだろう?こっちにおいで」

先生の声がする。バレた。

 

どうしよう。

ぐるぐるぐるぐる、考える。そうだ、大丈夫だ。私は飛べる。夢の中で自由の動けることを知っている。むしろ見せつけてやってもいい。

板が軋む音がして、あの先生がやってくる。こちらを見て少し驚いた表情で、でもすぐに優しく微笑んで、言う。

「あぁ、XXさんか。怒ってないよ、こっちにおいで」

私はその言葉を無視して逃げる。逃げた先には外の大きなベランダへ続く外通路があるだけだ。その手すりに登る。

「危ないよ、おいでよ」

飛び降りる。

先生が慌てて駆け寄る音がする。私は空中で身を捻り、もう一度跳躍して、その先にある板の上に立つ。厚さ20センチ、幅4メートルくらいで高さは二階建ての手すりと同じくらいあるただの大きな一枚板だ。何故このようなものが地面に垂直に立っているのかは分からない。

振り返ると、驚いた表情が見える。やってやった。私はふ、と笑ってみせる。

「心配ないですよ」

そうだ、私はこんなことも出来るんだ。だからこの場所を手に入れることだって簡単に出来るはず。

クラスメイトも誰もいないこの場所でゆっくり過ごす。素敵だ!

そう意に決してもう一度前を向く。誰もいない。あいつは?

「ここに君たちを連れてきたのは俺だよ」

すぐ傍で柔らかい声がする。出来ないとでも思った?と笑った。その顔に“先生”の影はない。違う、最初からこの人には先生っぽさなんて微塵も無かったんだ。

「別に危害を加えようってんじゃない、まずは戻って話をしよう」

私は飛ぶ。分からない、大丈夫な気もするし怪しい気もする。優しいというだけで不信感がある。

離れろ、離れろ!かなりの距離をとって、着地する。あの家から1キロは離れただろう。

降り立った場所は柔らかな芝生で、素足に刺さる青草がくすぐったい。追ってくる気配はないので、ゆっくりと周りを見てみる。

だだっ広い楕円状の芝生の真ん中にあの家があるみたいだ。周りは鬱蒼とした森に囲まれている。飛んだ時にちらりと見えたが、どこまでも…地平線の彼方までずっと緑の森だったように思う。

取り敢えずこの森の中に隠れるか、と歩き出して森に近づいた時に分かる。本能の中に知識がある。

この森の中には恐ろしく大きな魔物が沢山いて、踏み込めば生きて帰れない。ただしこの光のあたる芝生の空間だけは絶対的に大丈夫だ。

森へ進むのはやめて、もう一度あの家に振り返る。

そうか、とも思う。だからあの家があるのか。

何としてでもあの家が欲しい。あの快適な家を私のものにしたい。

懐かしさとも違う、でも胸の内から強く沸き起こる「欲しい」「あそこで休めたら凄く良い気分のはずだ」という感情。感情だ。欲しい、絶対に欲しい。あの場所でゆっくりと過ごしたい。

 

入り直そう。

 

私の夢から入り直せば、あの家にいるクラスメイトやらあの男やらはいなくなるはずだ。

そうすれば私だけの家になるはず。

そう思って、意識を表面にあげる。知覚が現実を認識し始める。

 

3時くらいか、外はまだ暗い。家人の寝息が聞こえる。かけ布団の下の毛布が足元でグチャっとなっていたので手繰りよせる。寝返りを忘れていたのか、身体が重い。横向きに直して、もう一度眠る。あの場所を強く想う。

 

私は家の前に立っている。

周りは鬱蒼とした森、足元に広がる芝生。大きな木の家。

成功だ!また来れた。前に来た時は家の中に直接入っていたが、今度はちゃんと玄関の外からみたいだ。自分で来たからだろうか?ドアを開けて中に入る。

さっきまでクラスメイトたちで賑わっていたリビングはしんとしていて、今では風の音さえ聞こえる。照明がなくても明るいと思っていたが、人が全くいなくなるとやはりキッチンの奥などは僅かに暗い。それでもその自然な暗さが、喧騒から解き放たれた安寧を象徴しているかのようで、私には好ましく思えた。

2階へ上がる。和室の窓は開いたままだ。この家には窓はなく、基本的に枠があるだけだ。雨など降らないのだろう。あの和室の障子窓だけが例外で、おそらく意匠として必要だったのだろう。和室をぐるりと回って、広いベランダを目指す。

 

靴が、ある。

 

こっそりベランダを覗くと、やはり誰かの…あの男子生徒の背中が見える。

どういうこと!?ちゃんと私の夢から入り直したはずだ。その証拠に1階のクラスメイトたちは消えた。ここは、私の場所にするはずなのに!

「ここはそういう場所なんだよ」

背後からあの男の人の声がする。振り向くと、目があった。逃げるなよ、と目で制してくる。

「彼は俺がここに選んで連れきたから残ったみたいだな。分かったろ?そういう場所なんだよ」

ざわざわと森が風で揺れる音がする。

あの中には魔物が沢山いて、でもここは大丈夫で、この家は居心地が良く、私はこの場所が欲しい。

ベランダにいるあの男子生徒にはもう魂はない、分かる。こちらに関心もなく、今は背中が見えるだけだ。放っておいいてもずっとあのままだろう。

目の前の男は、私を見ている。

「考えてることは分かるよ、まぁ…危害を加える気はない。話そう」

そうだ、多分ここはそういう場ではない。というか、そこまで及ばない場所だ。場所が先にあって、場所の力の方が強い。

大丈夫かもしれない、と2割ほど傾いた天秤を慎重に保ちながら、私は頷いた。

 

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例によって、なるべく忠実に夢の中を再現している。例えば、私が初めて2階へ上がった時にベランダで白いスニーカーがあることに気付くシーンがあるが、みんな素足で上がっている筈で、誰かの靴がそこにあるのは不自然である。書いていて疑問に思ったが、夢の中では特に何も思わなかったので、そういった描写は挟まないようにした。

 

小説ではキャラクターが「意味もなく居心地が良い」という未知の場所に出会うと、理性が恐怖を感じる描写を含ませてしまうが、実際はそんな恐怖などあるわけがない。

居心地が良いものは良く、そうあるものはそう、なのだ。

あの場所でゆっくり、読書をしたり、外に机と椅子を並べてパンとサラダの簡単なランチをしたり、広いベランダで昼寝をしたりしたかった。一人でも寂しさや孤独とは無縁の場所のようだった。雨も降らないし、きっとずっと満月の夜が続いていたりして、さぞかし素敵な日々があっただろう。

私のものにしたい、と感じたあの強い気持ちは、場が為せる魔力のようなものだったんだろうなと思う。

何となく、もう行けない気がしている。

 

でも、いつかどこかで貴方の夢に私が現れて、あの人のように貴方をあの場所へ連れていってあげることがあるかもしれない。

とても素敵な場所だから、きっと君も焦がれることだろう。