ペルソナ5 クリアレビュー 現実への帰還に残るもの

 

ペルソナ5 - PS3

ペルソナ5 - PS3

  • 発売日: 2016/09/15
  • メディア: Video Game
 

ペルソナ5をクリアした。めちゃくちゃ良いゲームだった。

easyの難易度で90時間。確かにかなりのボリュームだったが、それだけの時間がまた幸福に満ちていたのも事実だ。プレイ中も楽しかったが、プレイしていない日中...仕事中や家事や通勤の最中だって「明日はどうしよう」「次はどうなるんだろう」とワクワクしていた。こんなにもウキウキとした日常が自分の日常に浸透してくるなんて思ってもみなかった。楽しみがある、という感覚が生きる上で与える意味はとても大きい。

 

ここからはネタバレ全開での考察と感想を書いていく。

未プレイ諸君には、こちらにネタバレ無しでの感想があるのでこちらを読まれたし。

t.co

 

さて、では書いていこう。

ゲームプレイのストレスフリー

とにかくプレイヤーにストレスを感じさせないRPGとして作り込まれている。

バトルにおけるテンポ*1、コープアビリティによる緊張感調整のための不自由さからの解放、進行ログ、etc…。

特に仲間メンバーの育成に気を遣わなくても良いのは嬉しかった。仲間のメンバーの参入ペースがかなり緩やかなのと、経験値分配アビリティのお陰で、前衛入れ替えを頻繁にして経験値配分を考える必要がない。戦闘におけるメリット(と愛)だけを考えて、メンバーを出すことができる。(惑わせ、ミラディ!が好きだったのでずっと春を出していた) キャラクターを愛でるという意味では、参入が遅いというのは残念だったが、一方で愛のままに戦闘できるというのは快適だった。

 

 また、パレス内を捜索する場合でもストーリィ上同じ道を通らざるを得ないような場合は「一気にいこうか!」と仲間が問いかけてくれ、道中をショートカットすることができる。

アクションシーンでも、操作テクニックは不要で「RPGを楽しみたい」という層に向けて易しい作りになっている。タイミングよくボタンを押すだとか、ジャンプ位置を調整するがめちゃくちゃ苦手な自分にとって、これは非常に嬉しかった。

 

一度しか通れない道に隠されたレアアイテムなどもなく、また重要な選択においてもきちんとそれを示唆する情報が与えられ、ゲームをプレイする上でのストレスというものを極限まで無くそうという制作側の愛情が伝わってくる。

 

 世界への没入感

「バトルする」「セーブする」「ダンジョン探索をする」というRPGゲームの動作一つ一つに物語としての解釈がある。

何故敵が存在するのか、何故安全なセーブポイントがダンジョン内に存在しているのか、戦闘がそのダンジョン内でどのような意味を持つのか、そういったところに納得する理由があるのだ。ロード時間や戦闘からリザルト画面への移行などにも工夫があり、「自分はゲームで遊んでいるのだ」と思い出す隙がない。

私は真実、学園生活と怪盗団の二重生活を送っていたのだ。

その没入感がもたらす「二回目」の虚無

一方でこの没入感がもたらす弊害もある。

ジョーカーがかっこよすぎて主体が剥離するという話*2は置いておいて、二週目へのモチベーションが湧かないのだ。ゲーム自体には二週目でないと出来ないイベントなどが設定され、周回を想定して作られていることが分かる。また、バトルでも生活でも攻略を目的とすると細かいミニゲームをゆっくり遊んでいる暇はないので、そういった部分も二週目の楽しみになるのだろう。

でもそこには、そもそも「人生を二回やる」という虚しさが存在している。

P5は没入感を大事にしていて、それはなによりも「主人公にデフォルトネームがなく、自分で名前を設定する必要がある」という点で強く明示されている。ゲーム中でも、多くの友人、先生、バイト仲間、あらゆる人々が自分の名前を読んでくれる。名前を呼ばれるごとに、プレイ中の意識は自分が設定した「〇〇 〇〇〇」になっていく。

もう一度、二週目をやる際に別の名前を設定することは可能だ。

でも、そこには同じ運命を歩む同じ顔をした別の人間がいる。

さっきまでのあの人生を歩んだここにある魂はどこに行けば良いのだろう?

 

自分が同じくらいハマったゲーム、例えば『大神』においては”アマテラス”という主人公がいて、それを俯瞰的に操作するゲームだった。他人の人生だ。『P3P』では二週目は性別を変えることができた。別の人生だ。

没入感があるからこそ、さっきまでの魂が、名前と見た目が意識を縛る。

なんとなくこの虚しさと向き合うことが出来ずにいて、二週目をどうしていいか分からない。*3

盗まれる心、盗まれない心/選んだもの、選ばなかったもの

歪みの元となるオタカラを盗む、という改心を2回やってからの、フタバパレスでの心というものへの切り口。そして煽動されて盗む心、初心に返っての…とメインテーマとなる「心を盗む」という点において様々なアプローチをとるその展開は、こちらもとても考えさせられる面白い構成だった。

 

ただ、それだけに最終決戦…12月のラスボス戦での結論は粗が目立った。

特にみんなが突然怪盗団を応援しだすところ。

主人公と重要なコープを築いてきた彼らからの応援や信頼には胸が熱くなった。しかし、何も考えず流されるだけの有象無象の群衆の応援パワーで怪盗団が強くなるのはおかしくない?「思考と決定を放棄した群衆」が依存先を神から怪盗団に変えただけで、それは取引バッドエンドと根本的には変わらないのでは?

「みんなの力が集まってくる!」のみんなは数が多ければ良いという話ではなくて、それは現時点で持ち得ない力が、自身の過去の行いによって返ってくる…「報われる」という点で感動を呼び起こすのだ。

これでは怪盗団という存在は、「正義」という力は結局群衆によって煽動されるモノになってしまうではないか。

心ってもっと大事で、怪盗団の信念と力ってもっと大事なもんじゃなかったのか?

せめてメメントスで改心させたヤツだとか、その被害者モブだとかにして欲しかった。(私が気付いてないだけであのモブはそういう連中だったのかもしれないが…)(もしそうだったとしてもあのムービーの最中、もっと分かりやすく情報を入れて欲しい。小ネタにする場面ではない)

空疎な「みんなの応援パワー」で勝った後に、展開の帳尻合わせみたいなモルガナの世界解釈が流れる。モルガナとの別れのシーン、そんな理論の説明なんかじゃなくてもっと残すものがあるだろ!そんなのその後にベルベットルームで”世界“を得た主人公にだけ説明すれば良くない…?というかそっちのシーンで必要な台詞でしょう、それは。

 

積み上げてきたものと、積み上げてこなかったものの差が雑に取り扱われてしまうのが、とても悲しかった。人生は選択とその責任の連続だ。正義を貫くたびに、誰かと関わりあうたびに主人公は「これで良いんだよな?」と自問自答し続けてきたはずだ。その度に何度も選択肢を選んでボタンを押してきた。同じような意味の発言になる場合でも「選ぶ」というプレイヤーの行動に、意識に働きかけ続けてきたゲームだった筈だ。

それが最後にこうなってしまったのは、些か残念だった。

 

信念の着地点と、そこから続く現実

とはいえ、物語というものは起承転結の結だけが意味ではない。

人生がそうであるように、最後に手にしたものだけが全てではないのだ。

 

このペルソナ5でかなり意識的に描かれているな、と感じたのが”大人”だ。

ゲーム全体としては「悪い大人を成敗する」がコンセプトだが、一方できちんと「理解してくれて歩み寄る大人もちゃんといる」ということも丁寧に描かれている。メインメンバー以外のコープの殆どが稼ぎのある社会人で、所謂「大人」なのもそこのバランスを意識しているんじゃないかと思う。

 

それが明示的に表れるのが怪盗団と新島冴の最後の取引だ。

「これからは大人がきちんと」という取引は、奇跡で世の道理は変えられない、という真実を確固たるものにする。その言葉は高校生という「子ども」の終わりにいる彼らだからこそ言える言葉だ。これからすぐにその大人になる彼らの、決意なのだ。だからこそ、高校三年生である真と春のコープでは、社会というものを意識した将来の話が色濃く描かれている。

これは子どもと子どもの未来のための「大人は大丈夫」「任せます!」という物語ではない。「力を持つ者がその力を正しく使う」という怪盗団の在り方を異世界から現実に当て嵌めた、これからも続いていく物語なのだ。

プレイする側が子供だったとしても大人だったとしても、怪盗団の出した答えにきちんと寄り添えるようになっている。怪盗団の信念を、現実に持ち帰ることが出来るようになっている。

 

私たちの還る場所

そして更に「現実」を突き付けてくる。

主人公の裁判だ。

 

どうにもならない目の前の過酷な現実があって、それを主人公達「怪盗団」が解決してきた。

この時、そこには二つの奇跡がもたらされる。選ばれた特別な力で誰かを救える英雄になれた者へと、どうにもならない現実が何もしなくてもどうにかなった被害者へだ。どちらに感情移入しても、私たちは現実に対して失望を抱くことになる。「そうだ、これはフィクションで現実はこうはならない」

フィクションはドラッグみたいなもので、摂取している最中は幸福だが、醒めてしまえば倍の悲哀が襲ってくる。

そういう悲しみへの答えとして、12/25以降の日々がある。

結局のところ、私たちの現実での救いとは、自らが築く人間関係だったり法だったり行動でしかやってこない。

「何者にかになりたい」「目の前の地獄を何とかしたい」という願いを救われる人間にも何が必要なのかということを最後に描いているのだ。

 

もちろん寓意もあるだろうが、このメッセージは何よりもプレイ後の私たちの現実への帰還を穏やかにする。

これもまたプレイヤーへの篤い配慮だ。

 終わりに

徹頭徹尾、プレイヤーへのストレスフリーに徹したゲームであったと言えよう。

操作やデザインといったテクニカルなのものから、私たちの気持ちや考察といった現実への影響まで、全てを考えて「ゲームプレイ」を気持ち良くさせてくれる工夫があった。

 

もちろん、手放しで賛辞を送っているわけではないけども、クリアまでのワクワク!は確かに私の日常を素敵なものにしてくれた。

本当に素晴らしい体験だった。とてもとても楽しかった!

*1:音楽も凄く良かった。Rivers in the desert が一番好きだな

*2:ペルソナ5---世界への没入感がもたらす幸福と地獄 - 千年先の我が庭を見よ

*3:あと人間パラメータもMaxにさせるのが前提の作りなので、二周目では自分磨き活動に向上のモチベーションが無くなるのも辛い。レベル3スタートくらいのハンデで良かった。