『言の葉の庭』を観た。
濡れる都市の天空、煙る豊かな緑、揺らぐ銀色の水面が美しい。静謐な庭園と無干渉な都市を背景に、主人公二人の呟くような台詞と独白によって物語が構成されていく。俯瞰的なカメラが広い世界を映す一方で、そこにある現実の密度は低い。タカオとユキノのそれぞれの意識の外にあるものは殆ど描かれない。
こういう世界の構成が主人公達の識野と直結している物語のジャンルをセカイ系と呼ぶ。(諸説あるが)現実の生活では、今日の夕飯だとか他人への気遣いだとか預金残高だとか心を乱す夾雑物が多くて疲れる。雨の日の満員電車のようだ。疲れた心には、これぐらいの世界の狭さが心地良い。
...と思って観ていたのだが、中盤でこのユキノという女性の正体がはっきりしてしまう。その過程で「ハァ~?あいつ淫乱女じゃん」「マジでなんなん?ウッザ~」みたいなことを言う嫌な女達が出てくる。
え~~~せっかく狭い世界の清純を味わっていたのに何で嫌なヤツが出てくるんだ......。
ここで一気に気分が悪くなる。そこからは更に現実味を帯びた話になり、それぞれの正体や時間が一気に輪郭を持ち始め、感情の吐露が始まる。その間もカメラはあまりにも美しい豪雨を映している。視覚が受け取る透明度と感情が受け取る透明度に突然溝が出来て脳が混乱している。深いクレバスが私の感受性の大地を引き裂く。天国的な光が都市に降り注ぎ、物語はクライマックスを超え、ED曲「Rain」が流れてエンドロールとなる。架空の世累に殴られたショックで呆然としていると、映画が終わっていた。アッ...アア....。
....エッ.....?
何だったんだ。何なんだろう、何か間違っているような気がするが、それは私の心のような気がする。映画は正しいと直感が告げている。もう一度EDを見直す。
この映画にふさわしい歌詞を纏う音楽を聴きながら考える。
あ、この映画の主人公は雨なのか。
多分、タカオとユキノの関係とかそれぞれの思いとかオマケなんだ。雨に物語を与えるための、添え物なんじゃないか?
人間、どうでもいいんですよね。
世界が主人公のセカイ系なんだ。
なるほど~。
雨を主軸に映画を観ていくと素晴らしい映画なんだと実感する。雨が齎す人間達の些細な揺らぎ、緑への恵み。気象に物語と表情を持たせ、音楽へと導く。そういう映画なのだ。
映画はどういう目線で映画を見るかというのが批評に強く影響する。我々は独白する生命体を中心に物語を捉えがちだが、生命体による些末な揺らぎによって動じない(あるいは乱される)世界そのものを描く映画も存在する。
これは新しいセカイ系だ。
詩的で美しい映画だった。