家の近くが更地になるとサーティーワンアイスクリームが出来るかもしれない、と思う。
サーティーワンアイスクリームが特別好きなのかどうかは別として、様々なフレーバーがあるアイスクリーム屋がすぐ近くにある、という可能性はとても魅力的だ。たぶん実際に出来たとしても月に一度も行かないだろう。家の近くに美味しいワッフルを出すカフェがあるが、結局3年で4回くらいしか行っていない。いや、行かなかった。その店は先週潰れた。
いつだって気持ちがそういう方向に流れたら、自分は31のフレーバーから好きなアイスクリームを選んで食べることができる。そういう可能性が圧倒的優位を導く。何に対しての優位か?退屈だ。退屈な自分の人生に対する優位性だ。
有限のスペース(銀河ではない)に住んでいる。大抵の人間はそうだろう。その為にクローゼットに入りきらない服をだいぶ捨てた。結果的に今夏は10着くらいしか着回していなかった。無ければ無いで生活が成り立ってしまう。そうか...。前回の冬が終わるときに仕舞いきれなかった服を沢山捨てた。今年の冬に着る服があまり無い。無ければ無いで生活が成り立つらしいが、どうだろう。
聞き馴染みのある音楽しか聞かなくなった。
定額制音楽サービスに全く興味がない、というか生活に音楽を持ち込まない。 一人暮らしをしたときに初めて気付いたが、自分は一人きりになっても歌を歌うことはなかった。怖くないですか?一人の空間に自分の声だけが響いている状態...。
最近は車に乗るときとネットサーフィンの合間くらいしか音楽を聞いていない。知らない音楽から自分の好みに合うものを探すだけの意欲が無くなり、聞き馴染みのある音楽しか聴かなくなった。車にある音楽プレーヤーは数年前から更新されていない。琥珀のように音楽の時間を閉じ込めている。
夏の終わりになると必ず思い出す夏がある。
あの頃、三階建ての建物の中から一人何度と無く見上げた青空を思い出す。身体にまとわり付く熱気と、視界の端で揺れるカーテンまで覚えている。時折聞こえる賑やかな声は遠く、その場所には心地よい孤独があった。
そしていつも誰かを待っていたと思う。
毎夜の涼風が少しずつ夏を攫っていく。夏の残響のような長雨が続いている。