物語における美しい少女という呪縛

「いやよ、私も一緒に行くわ!」と熱く叫ぶ少女にクールな少年が呆れる。

「嫌って言われたって一緒に行くわよ!」

あ、またこのパターンの女の子か、と少しうんざりしている。

 

私が、だ。

 

ミステリやSFではこの「思いつきで回りを顧みず、すぐ行動する無鉄砲な少女」が出てくる。

読むたびになんだかなーという気持ちになる。キャラノベルものの「クールな男性」の傍に出てきて、その男性をあちこち連れまわして物語に旋風を起こし、男性や物語を引き立てる女の子ってやつ....。女の子ってそんなに馬鹿で感情的な生き物かしら。

でも多分これはジェンダーの問題じゃなくて、「童話に出てくる姉は意地悪で妹は美しく清貧」みたいな物語の呪縛みたいなものだとは思う。

 

例えば、ラピュタでパズーが突然現れたシータのために人生を投げ打ってしまうように、「美しい少女」には現実感を全て拭い去って人生を変える力があるもの、とされている。RPGではよくある話で物語の容易な牽引に「美しい少女」「やる気のある正義感の強い少年」、そして前述のような「無鉄砲で感情的な少女」みたいなものは、読者側に受け入れられやすいというか、「いつものパターンね」と受け入れそこにある違和感を消し去る力がある。


そこに依存することそのものはジェンダーの問題である。


でもそれはさっき言った「姉は意地悪」という童話の呪縛と同じで、ただのアイテム存在になっているだけで、それを消し去ることは立ち向かうべき問題ではないと思う。それが悪いことだ!と声をあげることに価値はない。作者は問題を認識していてもいなくても、読者とコンセンサスのとりやすいキャラクターがあれば使うだろう。物語は結局、面白いか面白くないかであり、善き物語であることは求められていないからだ。

そして、何よりも「そういう人間はいる」のだ。

感情的で無鉄砲な女の子は存在するし、冒険を夢見て人生を投げ打つ機会を待っている少年もいる。描かない、ということはむしろ多様性の否定に他ならない。


しかし、だからこそ「無鉄砲で感情的な少年」を描き出すことは大きな価値ある行為だと思う。コンセンサス、が無い以上、そこに生まれる違和感を自力で打ち消していく必要があるが、そういう存在がいる小説はハチャメチャに面白い。

小川一水は面白い作家で、アイテムを使いつつもこの問題に向きあうキャラクターも生み出している。『天冥の標』のアクリラなどは代表格だろう。そして『天冥の標』はハチャメチャに面白い。
S&Mシリーズの西之園がめちゃくちゃ賢い設定だったのも、森博嗣の手腕だなと思う。そしてやはり『すべがてFになる』もハチャメチャに面白い。

結局、その物語に存在しているのが架空の個人である以上、ジェンダーの問題を見出す読者の目線自体が偏見なのだ。物語の呪縛は偏見によって成立するが、物語の呪縛を問題視することは自身の偏見によるものであるという問題の無限再帰が発生する。

だから物語は結局、面白いか面白くないかでしかない。

物語の呪縛を自力で解いてきた物語は、ハチャメチャに面白い。

ただそれだけのことだ。