祈りは可視光の光なりて

小さい頃、地球は丸くて人類はその地球に住んでいると初めて知った時、球体の内側に住んでいると思っていた。重力を知らないので、まさか平和のポスターの如く球体の側面に人が立てるわけがないと思っていた。ただ、そうすると世界(大陸と海)が丸いという情報と矛盾があるし、球体の中で階層を作らずに数億の人間が暮らすのも無理があるというのも分かっていた。結局、この考えは間違っているだろうと思ったままその時は流れた。人間の生命誕生の過程でも同じだ。受精の過程は謎だったが、人間の精子が空中を跳ぶはずが無いことくらい分かった。そうやってぼんやりと「多分おかしいな」と思いながら情報の更新を気長に待っていた気がする。今は知っている。

さて、今回はこの思い出と全く関係のない話をする。

 

家庭環境が最悪だったので、実は家族愛というものが理解出来ない。ただ沢山本を読んでいるので、一般社会での常識的な感情は知っているし、そういう内面処理の仕方をして別に精神的にも崩壊していない。知識が生きるための全てだ。

映画の家族愛の感動シーンは、宝物が壊れた場合や親友が死んだ場合などの想像と類推でなんとか理解してきた。ただ一つ言えるのは、あれは各人の身に根付いた愛への共感で底上げされた感動なので、そういうのが分からない人が見ても多分全然分からない。残念だ、残念か?それよりもホラー映画を楽しめる奴の右脳の方が可哀想だ。『リング』を見たあとにTVから絶対に貞子が出てこないって思ってリビングでスピースピー寝れる奴のこと、どう思う?想像力と感受性が死んでいる。この世には理解できないことの方が多い。

 

関係性にどんな名称が付いていても基本的には他人同士である。というのが大前提なんだけど、恋人だから/家族だから/夫婦だからと理想の距離感が先走っていて、人間関係に拗れが生じている。と思う。でも現実はそんな「みんな当たり前のコト、忘れてない?」の理論で語れるほど単調でもなくて、私は私の望む関係性があってただそれが名称に拘らないものであって欲しいというだけのものなのだ。言葉が常識を作り、常識は平凡を守る。世界は自分の理解の及ぶ範囲に収束されたし、という願いがただただお互いに犇きあっているだけだ。

 

命というよりも愛の単位でしか人は人を認識できない、と思う。その眼と脳が理解している目の前の生命体は何だ?

 

愛は祈りだ、と舞城王太郎は語った。

 

好き好き大好き超愛してる。 (講談社文庫)

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