高尚な感傷で凍傷

天を覆う明るい灰色の雲から零れる光で目が覚める。

このところは梅雨らしく雨と曇りの日が続いている。

昔、北陸に住んでいたことがあって、あの頃は晴れだとか雨だとかという予報が無意味だった。天気予報はすぐに見るのを辞めた。1年間に3本くらい傘を買っていたように思う。今でも一日ずっと晴天が続く日というのは凄く貴重な日に思える。

天気予報を見る習慣は北陸を離れて3、4年経った頃に戻った。

 

昔のことを思い出して文章を書いていると、どうしても感傷的になってしまう。書いた文章を読んでいるだけで何かを失ってきたような気持ちになる。せめてもっと詩的になれれば良いのだが。

 

詩的に?

 

Bump of Chikenが好きでそれなりにアルバムを何枚か聞いていた。新曲が出れば嬉しかった。でもある時、出てくる曲が少しずつ過去を切りとりながら作られているような気がしてきて、辛くなって聞かなくなってきた。ウェザーリポートとか透明飛行船だとかの、「車屋の前の交差点で」とか「仲良し度微妙な友達」とか、そういう誰かの過去の一瞬を除かせる生々しい単語が、そこから手繰り寄せられる「生身」が私には辛い。そういうものは受け取りたくない。

言葉を尽くせば理解できてしまう領域があって、そういうものこそ丁寧に扱わないと生臭い剥き身の肉を差し出すことになってしまう。(丁寧に、とは)きっと装飾華美にして隠された結果、物語が出来て、削り続けて実存を薄めた結果、詩や短歌があるのだと思う。誰かの主張を聞きたいわけではなく、風や時間のように全てのものに通り過ぎていって欲しい。そこに流れている水に触れたときに、それとなく水が欲しかったのだと気付かされたいのだ。傲慢だ。傲慢であれ。

吹雪のようにただその身を凍てせしめ、掴めば融解していくものであって欲しい。

 

この長い雨が終われば本格的な夏が来るだろう。

既に街にはおぞましい程の緑の生命の匂いがしている。