今、大義の話はしていない

チョコパイを食べていると、銀色の袋の裏に「みなさんから寄せられたチョコパイほっこりエピソード」が載っていた。

“ 部活の時、毎週月曜日に先生が今週も頑張ろう!って言いながらみんなにチョコパイを配ってくれるのが嬉しかったです。”

私は思った。先生、大変だな…と。チョコパイは恐らく先生のポケットマネーだっただろうし、部活の時にわざわざ買っていくのだって手間だっただろう。昨今では社会問題になるほど部活の面倒を見るのは大変だというし、こんなの教師という職業の枠を超えている、可哀想だ…とまで思った。でもそこまで考えて、これをそういう風に捉えて「先生かわいそう」と言うのはアホだな、と思った。アホと言ってしまうとかなり雑に言葉を圧縮させているが、センスレスとか野暮…にも近い。君子危うきに近寄らず、のニュアンスかもしれない。思うことは自由だしアホではないが、それをわざわざ口に出して世間に発信する決心をするのはアホだ。

このエピソードは「チョコパイでほっこりしたこと」としてチョコパイを受け取った学生の目線で美談として語られているのだ。だからこのエピソードは間違いなく美談だし、そういう風に良い思い出になっている学生の感情を否定するのは間違っているだろう。そうやって美談にするから教師の過負荷を助長させるのだ…という意見もあるかもしれない。でもそれは、「このように学生が喜ぶのだから、やらなければならない」と主張する体制側の話であって、学生そのものの感情とはまた別の話なのだ。そこにある恩恵や障害に何を感じてどう思うか…という自由を獲得する過程を育むことこそ教育である。だからこれは個人的で主観的なエピソードの一つで、どういう社会問題を浮き彫りにしているのかを読み取る投書ではないのだ。チョコパイ貰えてハッピーの思い出!以上の文意は無く、読み取ってはいけない。チョコパイや部活や学生のあるべき姿の話はしていない。そう、今、大義の話はしていない。

 

自分は、この大義というスケールでの考え方に囚われてしまうことが多い。

何かを「どうしようか」と相談された時に、なるべく平等であるとか普遍的である解決策に寄ってしまう。ここで言う平等は「ルールがこう決まっているので、個々に対して下される裁量は感情的なものではない」という釈明だ。当然それで取りこぼされるケースは多々出てくるけれども、全員に納得感があって安全だ。でもそれを「かわいそう」って個々に判断したり、特例を沢山作ることを善だとする意見もある。当然状況は複雑になるので、オーナー(何かをどうにかしようとしている側)はめちゃくちゃ大変になるし、裁可を下される側は妬みで快く思われないかもしれない。個人的にはこの考えは良くないんじゃないかなぁ、とずっと悩んできたけど、でも小さなコミュニティ(プロジェクトチームとか友人間とか)ではそのオーナーがそれで良いと言えば良いんだし、下される側もそれでまあ概ねOKぽい感じならもう別に普遍性とか要らないんですよね。めちゃくちゃ簡単に言うと、5歳のヨシオくんが喜んでて、パパもママもおにーちゃんもおねーちゃんもOKならホールケーキはヨシオくんだけ120度取って良いの。今、大義の話はしていないんです。

 

勿論、今まで「べきである!」と言って等分配当を主張し続けたりしたわけでもなく「まあ、ヨシオくんが望んでてみんなも良いなら、私も別に良いし…それで行こうか」くらいの柔軟さはちゃんと持っていてウマクはやってきた。今は平等さや普遍性は求められていないんだな、という事はちゃんと理解してきた。ただ、自分のこの柔軟さに対する、(自身の)公正さとの葛藤が全然上手く腑に落ちてくれなくて悩んでいた。これは今回やっと言葉になって思想として落ち着いたので、その記念として文章にした次第である。

 

 

 

 

蛇足。

副次的に、自分にとって「言葉で思想を固着する」という行為がかなり精神に重要なんだなと知った。同じ行為でも、今この信念に従って行動しているという安心感がある。