君は有罪のタピオカを見たことがあるか

あっちもタピオカ、こっちもタピオカである。

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いまや少し洒落たカフェであればタピオカ飲料を扱わぬ店は無く、ビルの空きテナントには次々とタピオカ飲料店が入る。世は大タピオカ時代(タピオカが大きい時代ではない)となった。しかしブーム時には必定の悲哀といえよう...もはやタピオカドリンクは玉石混合となり、往年のタピオカドリンク・ファンはむしろ現況を静観する傾向にある。

そんな中、我々はキューピーより素晴らしいタピオカデザートが発売されていることを発見した。

https://www.kewpie.co.jp/prouse/products/imgs/products_detail/57688.jpg

アジアンテーブル 濃厚ココナッツミルク(タピオカボール入り) | 業務用商品 | キユーピー

 

少なくとも2017年から発売されており、昨今のタピオカブームに対し先見の明があったとしか思えない商品である。業務用であるから、通常スーパーでは発売されておらず業務用スーパーのみでの取り扱いとなる。レアな商品だ。

 

しかしこれが凄く不味い

 

これが凄く不味い

 

「マズマズドットコム」「ゼロ点」「キューピーお客様相談室に電話だ」「社内の行き場を無くしたオッサン開発社員達が、充分な予算が無く一発逆転を考えて開発した商品」「故にアジア現地で実物を調査することなく、カルディで買ってきたタピオカを食べて考えた商品ではないか」「タピオカがゼロ点」

などと不評も不評、酷評である。

日頃よりマヨネーズとパスタソースでお世話になっているキューピー、あのキューピーが作っているのだから余程のハズレは無いと信じていた。

そんなことは無かった。不味い。

水または牛乳で薄めて飲むことも推奨されているが、そういう問題ではない。確かに原液でのココナッツミルクの甘ったるさが尋常でない。それよりも

 

タピオカが不味い

 

タピオカ特有のプニプニ食感が一切なく、完全に小粒の芋である。

むかごか?

ja.wikipedia.org

タピオカが不味いので、ゲロ甘いココナッツミルクの匂いとコクが辛い。修正液飲んでるみたいだ。勿体ないので紅茶に入れてみたが、ココナッツミルクティーは不味かった。どうしようもない。そもそも好き嫌いの分かれやすい食材ではある。ココナッツミルクは悪くない(罪は無い)。

タピオカは有罪だが。

 

このタピオカ・ビックウェーブに乗ることができれば、売り切れ必須大ヒットの商品であっただろうに非常に残念でならない。

 

ポストアポカリプスに対する備えは出来ているか?―『ゾンビでわかる神経科学』

2019年7月、世界には未だゾンビ......腐肉を纏い覚束ない足取りで、しかし確かな飢えと怒りを口から滴らせながら生者を襲う者.......は未だ居ない。

ネットの海に放たれた情報がどれ程の未来まで漂い続けるのかは不明だが、もし君が今、ゾンビ・バンデミックに直面し、「ゾンビ 生き残る 方法」などという検索ワードでこのブログにたどり着いているのだとしたら、

 

おめでとう!

 

有益な情報を与えよう。この本を手に入れろ。

ゾンビでわかる神経科学

ゾンビでわかる神経科学

 

以上だ。

さぁシャベルを掴んで今すぐ図書館へ向かおう! 健闘を祈る。

 

さて、ここからはまだ時間的猶予のある諸君らに向けた丁寧な解説だ。ポストアポカリプスについての精神的備えはあるか?ホームセンターに駆け込む?ほう、お前はゾンビは何が弱点で、その弱点は何故弱点なのか分かっているのか?

  

意識なく夢遊病のようにフラフラと歩き、飢えと狂気でもって人間を襲うゾンビ。

...では意識がないとは?夢遊病、睡眠状態にあるときの人間の脳と神経はどのような動きをし、それでも身体が動く場合とは脳でどのような不具合が発生しているのか?覚束ない足取りで歩く....普通に歩けないという事は、身体の何が故障しているということなのか?なぜ我々は歩く屍をきちんと「恐れ」るのか?ゾンビは何故「満腹」にならないのか?では満腹の状態とは身体がどのような信号を受け取ってそうなるのか?言葉が通じないという事は脳にどのような障害が発生し、その障害はどこで、どのように身体に影響しているのか?

 

これはゾンビという「かつて人間だったモノ」を通して、人間の脳・神経機能構造を理解し、そこからゾンビとは一体人間の「何が」失われ、動物的にどういう生き物なのかを解説する大真面目な科学書なのだ。

 

脊髄小脳失調(身体のバランス維持や動作の微調整が困難になる)は小脳の不具合だ。パーキンソン病(はっきりした短期的な目標がなければ行動開始し辛い)は大脳基底核の作用原理に不具合がある。つまり、部屋に入ってきてしっかりと生者を見定めてこちらへ歩き掴もうとしてくるゾンビは、大脳基底核は無傷だということだ。一方で、のそのそ歩き、広い歩幅、止まる事の無い動作...は小脳の不具合による症状を元に類推することができる。ゾンビは小脳に損傷があるはずだ!ゾンビは眠らない。睡眠という情報の復習ができないと、脳は新たな記憶を符号化する能力を失う。また、睡眠不足は注意力不足を招く。きわめて気が散りやすい状態のはずだ。しずかな場所で隠れていれば、ゾンビはもっと目をひくものに気をとられた瞬間に君のことを忘れてくれるはずだ。気をそらすための花火、ライトがを遠くに投げてやればもっと逃げやすい。そして、どのように逃げたってゾンビにとって「知っている道」はない!

 こうして、行動結果からどういう生態を持っているか類推すれば、その生態を利用することができる。

「夜に歩けばいいのよ。(中略)そうよ、妖魔は明かりに弱いの。夜目が利くぶん、光があると眼が弱るんだわ。寝ていたら、誰も声を上げたり身動きしたりしないでしょ。潅木や岩に寄り添って寝れば、余計に見つけにくいはずよ」

 

「開けた場所では、夜に歩く。少なくとも黄朱はそうする。―――頑丘が教えたんでなきゃ、珠晶が自分の頭で考えたんだろう。大したもんだ。」

十二国記 図南の翼/小野不由美より

知識を元に思考し行動するということは、人間が生き残るための武器だ。 

生き残り、勝ち抜き、その叡智でもって生存競争の果てに神に選ばれるための。 

 

タイトルと内容と文面からはオ★タ★クの熱い情熱が感じられるだろう。行動サンプル例として、沢山のゾンビ映画からゾンビ君達が登場する。時折挟まれる小気味良いジョークはページを捲る君の指を滑らかにしてくれる。読みやすく、非常に面白い科学書だ。外は地獄かもしれないが、束の間の娯楽をも与えてくれる。実益を兼ね備えた至上のエンターテイメント!

 

しかし、我々は知っておかねばならない。本書の内容がいかなる基盤を元に得られた叡智なのか―――犠牲を無駄にしてはならないとの見出しで始まる前書きをここに引用しておく。

人間の脳に関する知見の多くが、ケガや病気のせいで脳に障害を負った人を研究することで得られている。こうした犠牲者は、医学文献のなかではイニシャルで示される匿名の個人にすぎないが、現実には私達の愛する人々だ。(中略)なんらかの不幸な出来事の結果、彼らの人生は永久に変わってしまう。中枢神経系へのダメージによって、行動、思考、認知の仕方が変わってしまうからだ。ケガとその後の行動の変化の関係を研究することで、脳の実際の働き方について、計り知れないほどの貴重な知見が手に入る。.....

本書の多くのページがゾンビの話に費やされているように見えるかもしれない。だが実は、それはさまざまな人やものを称える頌歌なのだ。(中略)たいていは何の落ち度もないのに病気に苦しめられているうえ、白衣を着た見知らぬ男に「なぜ」とか「どうやって」などとたずねられても我慢強く接してくれた患者たちへの頌歌である。

 

生き残れ。

 

ja.wikipedia.org

 

 

 

 

高尚な感傷で凍傷

天を覆う明るい灰色の雲から零れる光で目が覚める。

このところは梅雨らしく雨と曇りの日が続いている。

昔、北陸に住んでいたことがあって、あの頃は晴れだとか雨だとかという予報が無意味だった。天気予報はすぐに見るのを辞めた。1年間に3本くらい傘を買っていたように思う。今でも一日ずっと晴天が続く日というのは凄く貴重な日に思える。

天気予報を見る習慣は北陸を離れて3、4年経った頃に戻った。

 

昔のことを思い出して文章を書いていると、どうしても感傷的になってしまう。書いた文章を読んでいるだけで何かを失ってきたような気持ちになる。せめてもっと詩的になれれば良いのだが。

 

詩的に?

 

Bump of Chikenが好きでそれなりにアルバムを何枚か聞いていた。新曲が出れば嬉しかった。でもある時、出てくる曲が少しずつ過去を切りとりながら作られているような気がしてきて、辛くなって聞かなくなってきた。ウェザーリポートとか透明飛行船だとかの、「車屋の前の交差点で」とか「仲良し度微妙な友達」とか、そういう誰かの過去の一瞬を除かせる生々しい単語が、そこから手繰り寄せられる「生身」が私には辛い。そういうものは受け取りたくない。

言葉を尽くせば理解できてしまう領域があって、そういうものこそ丁寧に扱わないと生臭い剥き身の肉を差し出すことになってしまう。(丁寧に、とは)きっと装飾華美にして隠された結果、物語が出来て、削り続けて実存を薄めた結果、詩や短歌があるのだと思う。誰かの主張を聞きたいわけではなく、風や時間のように全てのものに通り過ぎていって欲しい。そこに流れている水に触れたときに、それとなく水が欲しかったのだと気付かされたいのだ。傲慢だ。傲慢であれ。

吹雪のようにただその身を凍てせしめ、掴めば融解していくものであって欲しい。

 

この長い雨が終われば本格的な夏が来るだろう。

既に街にはおぞましい程の緑の生命の匂いがしている。

 

 

 

 

 

 

 

 

League of Legendsを辞めた

表題の通りよ。

私生活が慌しくなり、1ゲーム数十分拘束されるチームゲームというのはプレイし辛くなった。だいぶ長いこと...5年も遊んでいたけど、辞めると決めたらアッサリしたもので、アンインストールしてしまえば当然もう遊ぶことはなかったし、想像以上に未練は無かった。

 

全然上手くならなかったし、上手くなろうという努力みたいなモノもしなかったなと思う。

そもそも向いていない部分は多かった。自分の視界にステルスのChampion(キャラ)が突然現れたら、吃驚してマウスを落としていた。敵を殲滅しようという殺意に全く興奮しなかったし、故にKillに対して恐ろしく弱気だった。あと、集団戦でエフェクトが沢山重なると自分がどこにいるのか、誰のスキルがどう、敵がどこにいるかとかグチャグチャっとなって見えていませんでした。だから一番後ろでビーム撃ってるChampionが好きだった。

それでも、チームゲームという一点はその全てを無視できるくらいに楽しかった。

協力したり、誰かを支えたり、褒められたり、感謝されたりの「団結心を味わう」というのは精神にとってあまりにも甘美なパルスだった。凄いよ。

仕事なり部活なり、人生色々と他人と協力してなさねばならないプロジェクトは多くあるけど、これほどインスタントに協力―団結―成功のカタルシスを味わえるってさ、ゲームって最高だよ。凄いよ。

仕事から帰ってきて、ご飯を食べて、PCをつけて、誰かがログインしてきて、寝るまでくだらない事を喋りながら、勝ったり負けたりするのはとても楽しい。友達ってサイコーだな!って気持ちになる。まあ友達っていうのは、基本的に最高のものをそう呼ぶんですけど。

 

でも全然上手くならなかったし、上手くなろうという努力みたいなモノもしなかったと思う。

昔から、あんまり努力が得意じゃなかった。中学の時はテニス部だったけれども、他人の試合やプロプレイヤーには興味が無かったし、延々と素振りやスマッシュを打ち続ける練習って嫌いだった。私は、そこそこの上達で、なんとなーくポンポンやって、それなりにそれなりのアマチュアプレイが出来ていれば充分だった。私が楽しいのは誰かと遊んでいることで、そこに存在するゲームプレイのクオリティはそれほど重要ではない。

でも当然、長く遊んでいればボンヤリと上を意識するし、なにより負け方にマンネリが出てくる。自覚的な自分の愚かさに見て見ぬ振りして遊ぶのは、勝利以外の目的意識が強くないと出来ない。でもこのゲームは勝利か敗北かで結論が出るものなので、時々(自分に)ウンザリするようになってくる。難しい。仲間にも申し訳ない。

 

多分、そろそろ辞め時なんだなと思っていた。

ズルズルと辞めなかったのは、なんとなく「誰かと遊ぶ」っていうトリガーが無くなってしまうのが寂しかっただけだ。別にちゃんと声かけて集まれば良いだけなんだけどね。でも、なんとなくそこに集まって、遊んで、なんとなく解散するような......青春時代の部室みたいな場所がオンライン上にあるっていうのは、とても素敵なことだった。

kiloannum-garden.hatenablog.com

 

 

 

 

百花電葬

立法府によって生命の定義がなされた頃、私達は魂の定義について考えていた。

濡れた都市の路面には無秩序な光が揺らめいている。鈍色の壁には象形文字のような落書きがある。通りの奥を緑色の目をした黒猫が横切った。見上げた空は暗く、星は無い。かつて物語の中で創造されたようなような電子の世界が、今は物語の外にある。宇宙と生命の定義は長い議論を呼び、倫理と宗教の境界はより曖昧になった。言葉と秩序に従って生きていく為に我々は司法にその定義を委ね、残された幻想の拠り所として魂が選ばれた。

死ぬ時に私達は何を失うのか?

 

夜は明け、街に電子の太陽が昇る。

視界は夏の灰色だ、夢の続きのような解像度で哀愁を呼び寄せる。足元の水溜りにはきちんと青空が映されており、踏み込めばパシャリと音がする。シヅカはこうして水溜りを壊すのが好きだった。数歩歩いて、何も言わないシヅカを引き寄せる。二人で空に立っているみたいだね、と嬉しそうにした君の言葉を思い出して、手は繋いだままにした。そろそろだろう。

ごう、と遠くから音が先に来る。次いで色が来た。

街に淡い緑色の風が吹きぬける。どこからか飛んできた長いストールが小さな龍のように天に昇り、足元の空が揺らぎ、桃色のテクスチャが舞う。シヅカは何も言わない。長い髪の端に無数の花が踊る。光で顔が見えない。自分の電子の指先から、繋いだ手が花弁になり解けていくのが見えた。名前は呼ばなかった。そんな事をしたって自分の哀愁を詩的にするだけだ。分かりきっていたことだ。それでも吹き荒ぶ悲哀が私の身体を打ち付けて止まない。緑の風がシヅカを無数の桃色の花弁に変えて、変えて攫っていく。シヅカが消え去るまで私は一言も発しなかった。 ビュウ、ともう一度大きな風が来た。この1年間、表情も動作も言葉も無くシヅカはそこに居た。それでも救われる心はあったし、だからこそやはり喪うものもあったのだ。見るたびに胸が痛くならなかったと言えば嘘だ。でもこれだけの痛みがあったのだから、もう喪失感など感じないと思っていた。そんな事は無かった。緑の風の中で、喪失の杭が深々と私の心臓に穿たれたのを感じていた。もう傍には何も居ない。ただ桃色が舞い、遠ざかっていく。

頭に付けた機器と肉体の間でじっとりと汗が流れる。足元で絡まるコードが気持ち悪い。指先でグラスを探し、すっかり氷の溶けた麦茶を流し込む。昨晩からずっと繋ぎっぱなしで、脳も眼も肩も疲労が溜まっていた。ゆっくりとクラウンを脱ぐと、濡れた髪が頬に張り付き、額から滴る汗が目に滲みた。握り締めたコップには新しく冷えた麦茶が注がれる。ファンが唸る音がした。左腕のバンドが空調への指令を送ったのだろう。オーダー、と呟くと控えていた無機の妖精が穏やかに立ち上がり小首を傾げた。

 

世界は電波と愛で繋がり、人と世界は目に見える線で繋がっている。世には表情の無い無機の妖精が溢れ、最適化された機械達が私達の日々を満たしてくれている。言葉になるよりも早く心地よい風が吹き、冷たい水が注がれ、穏やかな無音がもたらされる。人にはそれぞれ、生まれたときから人生を共にする有機の相棒があり、もはや孤独すらも感じる必要が無い。かつて物語の中で創造された裕福な未来は今、物語の外にある。

 

シヅカが死んだのは―――シヅカの火葬があったのは昨年の9月だった。老衰の大往生だった。人は、死ぬときも一人ではない。天国までの道は相棒が導いてくれる。葬儀に訪れた多くの人々が、長いこと彼女の煙を見つめていた。思いを馳せる目だ。この目だけは魂と肉体と生命を持つ者にしか出来ない。私は青空に溶ける煙を見つめながら、きっと幸福な人生だったのだろうと思った。

肉体を失った電子世界の分身は、翌年の夏に緑の風と共に消去するのが慣習だ。法は無い。ただそうすべきだと、そうすべきだと思う世界にした方が良いと考えた数人がこの風習を創った。40年前の事だ。真夏のこの時期、死者が還って来る。電子の世界では消え去る。

何がだろう?

 

もう一度接続すると、電子の街には未だ不定期に吹く緑の風が、そこかしこの桃色を舞い上がらせていた。青空に立っているのは一人、風はただ私の髪を揺らすだけだ。私は未だ生きている。南へ向かうこの風は、明日までにこの街から全ての花弁を攫っていくだろう。

友が死ぬ時に、私達は何を失うのか。そこに何があったのか。

 

 

 

副詞のバラードⅡ(おもむろに)

カモミールティーをガブガブ飲む君の目はダイヤモンド

爆燃 炭素 苛烈

今もたぶん怒ってる

おもむろに取り出した僕のウクレレ

行き場を失って

嗚呼 どうにもならない


黒いタピオカを噛みちぎる君の目はダイヤモンド

爆燃 炭素 苛烈

多分まだ怒ってる

おもむろに切り出した僕の漫談も

行き場を失って

嗚呼 どうにもならない


何もしてないつもりだけど

多分何かしてるんだろな

ア~ア~アァ~


おもむろに差し出した僕の左手が

行き場を失って

嗚呼 どうにもならない

 

 

 

 

 

 

 

5月のこと

 5月が終わる。

時折吹く風に熱気が混じる。

濃くなった緑がそれぞれの昨夏を惹起させ、街に微かな倦怠をもたらしている。

いずれまた、長雨が一つの季節を遠く連れ去って行くことだろう。 

 

 

読書

 教養としての「税法」入門/木山泰嗣
教養としての「税法」入門

教養としての「税法」入門

 

 税というものに興味があったので借りてきた。

大学の講義のような内容に、という趣旨の通り「これから深く学びたいと考えている人のための入門書」として非常に優秀な本。もちろん教養として税法に興味がある人にとっても良書だ。最初に有名な判例を2つ上げ、それを基軸として税法の基本理念を説明していく。こういった専門書は最後まで読むのが中々しんどいものだが、読み手を飽きさせない構成が素晴らしく、また専門用語の説明とその省略加減も絶妙であり、初学者が躓かないようにという配慮がなされている。

 後半にあった某教授の、日本では税についての教育課程の不足が若者の主権者意識の低さの原因の一つである、という言は一理あるなと思う。

言葉人形/ジェフェリー・フォード

あまりにも美しい幻想小説。これを読まずして何を読むというのか。目眩く幻想は読むごとに魂の剥離を感じさせる。

本書はジェフリー・フォードの5冊の既刊短篇集から翻訳者が独自によりすぐった13編からなる傑作選だ。現実的なものから徐々に幻想的なものへとグラデーションをなす配列になっているが、この配列が読んでいて本当に心地よい。廃墟、季節の変わり目、小部屋、夜の長さ、その一つ一つの描写が酔うほどに美しい。ただただ、この言葉達をずっと摂取していたいと思わせる。

幻想小説として読ませておきながらスッパリと小気味良く悪戯のように終わる『ファンタジー作家の助手』、乱れた物理法則ならばSFとして愉快だが常識が狂っていると酩酊した読後感となる『私の分身の分身は私の分身ではありません』等々どれも面白いが、特に面白かったのは下記二編だ。

『言葉人形』

かつて野良仕事に駆り出される子どもたちの慰みとして用意された架空の友人…言葉人形。そしてその伝統はある恐ろしい出来事から廃れ、今はただこの博物館にのみ、その名残を留めている。....(カバー表紙裏より)

 このあらすじに惹かれて読み始めた。ホラーではなく、ただ「言葉人形」というかつてあった儀式について語られるだけの話だ。しかし、ホラーを読むよりもずっと、貴君の信じる人間性に強く爪痕を残す筈だ。一般的に儀式とは、どう始まりどう継承されどう終わるものなのであろうか?...そこでは「儀式」の野生の姿…利己的な目的達成と精神世界への干渉術という特性がむざむざと語られる。そして儀式という神懸かり的な非日常が、極めて人為的なものであったことを改めて痛感することになる。

『夢見る風』

この話が一番好きだ。とある町には、決まった季節の変わり目にだけ束の間の非現実の椿事をもたらす風が吹くという。体が椅子になったり、目が掌にいったり、オウムは人形と合体し、雲は紫色になり、木々はキリンの長い首になったり...ただ或る年に突然その風は吹かなくなる。.

恋の始まりから終わりまでを描くように、その町に住む人々にとっての夢見る風との付き合い方が描かれる。物語の起句“夏と秋が同じベッドにいて....”も素晴らしいが、話の展開と「不思議の終わらせ方」がとても好きだ。

 

この二編、起点と終点が真逆の作りとなっているが、本質的には「人為の神秘への昇華」の陰性と陽性を描いた対を成す作品である。『夢見る風』がどういう結末になったのかは是非読んで確かめて欲しい。

世界の凄いお葬式 From here to eternity/ケイトリン・ドーティ
世界のすごいお葬式

世界のすごいお葬式

 

タイトルの通り。アメリカで葬儀社を営む作者は、産業化、ファスト化していく葬儀業界に疑問を持ち始める。弔うって―――こういうこと?

そして世界各国の葬式を見学、レポート化したのが本書だ。訳に因るところもあるだろうが、作者自身の偏見を隠さず語り、日本人の読者にとっては「アメリカという文化背景を持つ人間から見た世界の葬式」というフィルターそのものにも真新しさがある。もちろん、 日本も取材されている。

住民参加の野外火葬:アメリカ・コロラド州クレンストン

 クレンストンではキャンプファイヤーのように住民参加で火葬する。土葬が一般的なアメリカでの火葬ということ、火葬時の土地確保や住民の理解などを描く。

秘境トラジャ族の死者と共にある生活:インドネシア・南スラウェシ

...南スラウェシでは死とは生命の停止ではない。死体となった後であれ。共に過ごしミイラ化した家族を彼らなりの流儀で弔う。一度土葬した後でも家族は掘り起こし、掃除して、花を飾り服を着せる。(つまり、お盆に魂だけが還ってくるのではない。文字通り帰ってくるのだ)「死」というものの定義が違う土地での葬送を描く。

花の祝祭、死者の日:メキシコ・ミチョアカン

007の映画によってショーと化した祝祭。アメリカでは死というものを、臭いものに蓋をするようにタブー視する。幼子を亡くしたアメリカ人がそういった世俗背景において「死と向き合うことさえ許されない」と感じ、この祝祭に参加する。死、そのものをタブー視せず身近に置くものとする世間を描く。

死体で肥料を作る研究:アメリカ・ノールカロライナ州カロウィー

こちらは土葬だが、 「土に還る」ということを文字通り行う研究だ。検体提供された死体をおがくずなどと一緒に土葬し、肥料になるかどうかという研究を取材する。「自然に還るって素敵!」という精神的な発想だけでなく、アメリカという膨大な国土を持つ国であっても絶え間なく発展するこの社会において「墓地」の土地問題は深刻だ。土地があれば埋めればいいってもんじゃない。荒野のど真ん中に土葬されたいか?NOだ。できれば自然豊かな緑の土地に埋められたい、でもいずれ場所はなくなる。その未来へ向けた非常に現実的な研究なのだ。

地中海の陽光あふれる葬儀社:スペイン・バルセロナ

アメリカに比べ、火葬率が向上傾向にあるヨーロッパの火葬場を取材する。日本人からするとあまり異文化という感じがしないが、死体と遺族の時間・向き合い方など死後、肉体が灰になるまでの間に、やはりその土地ならではの宗教観がある。

高齢化と仏教とテクノロジー、SFのような世界:日本・東京

東京の幸國寺の納骨堂。壁一面に2000体の青く輝く小さな仏像達が並べられている。入り口のキーパッドでIDカードか故人名を検索をすると、1体だけが純白の光に包まれる。これでちゃんとおじいちゃんに墓参りできる、というわけだ。四季に合わせ、柔らかなLEDイルミネーションも揺らめく。「仏教はいつも時代にあわせて変化してきた、ハイテクと相性が良い」

火葬率99.9%と世界でも比類ない火葬大国である日本。日本人である我々にとっては当たり前の感覚だが、世界では今も「火葬反対」が多い先進国(特にカトリック教徒)は少なくない。そんな日本では問題は次なるステージに向かっている。墓場の土地不足に加え、核家族化といった世相の変化によって、墓はどうするのか・その墓の維持は誰がするのかといった不安が叫ばれるようになった。そういった時代に合わせて、日本ではどういう答えを出したのか。まるでSFの、冗談のような世界だ。最先端の葬送業界の発展を知ることが出来、異文化というフィルターを通して見る我々の死生観というのもなかなか面白い。 

頭蓋骨信仰:ボリビア・ラバス

頭蓋骨にお願いごとをする。頭蓋骨にはそれぞれ名前があり、金運が得意な頭蓋骨だってある。我々が神社でお願いごとをするように、死者の頭蓋骨に祈る文化がある。生前に聖者だったわけでもなく、また頭蓋骨の名前も生前の名とは関係がない。葬送というよりは、死そのものとの特殊な向き合い方だ。

 

葬送という儀式を通して、それぞれの土地に根付く「死」への観念を描く。著者に同行するその土地の人々による言も興味深い。信仰心の違いよりも死生観の方の違いの方が、異文化が異文化であるということを理解しやすい。

 蜜蜂と遠雷恩田陸
蜜蜂と遠雷

蜜蜂と遠雷

 

 ようやっと読んだぜ。

恩田陸ファンとしては、あ...あれ!?小奇麗に纏まってますね!?と回りまわって拍子抜けしてしまった。恩田先生の作品は拍子抜けするのがオチみたいなとこあるじゃないですか?拍子抜けしなかったので拍子抜けしてしまった。

クラシックピアノコンクールの話なのだが、各演奏者の奏でる何曲もの音楽をただ文字だけで表現するって凄まじい技だ。白眉。恩田陸という作家の力量をこれでもかと叩きつけられている。勿論とても面白い、しかし「優等生」っぽい作品だなあと思う。これが直木賞受賞作というのも、ピアノコンクールにおいて「ただの優等生」が零れ落ちていくという話を抱えているだけに皮肉っぽいなと思う。

作品の凄さは随一だったけど、個人的には『麦の海に沈む果実』とか『ユージニア』の方が好き。

 錆喰いビスコ/瘤久保慎司
錆喰いビスコ (電撃文庫)

錆喰いビスコ (電撃文庫)

 

世界観がシンプルでありながら小気味よく、キャラも魅力的、ストーリーも起承転結はっきり流れてり、非常に読みやすい。これぞティーンズ向けライトノベル!といった感じ。キャラにしても話にしてもアクがないので展開が読みやすいが、結局のところ「丁寧に作られた王道」ってのは大正解の一つなのだ。(俺たちは幼児向けアニメで強く実感している筈だ)そう、面白い。

そのうちアニメ化すると思います。

書く力 私たちはこうして文章を磨いた/池上彰,竹内政明
書く力 私たちはこうして文章を磨いた (朝日新書)

書く力 私たちはこうして文章を磨いた (朝日新書)

 

今、君が何らかの文章を不特定多数の誰かに向かって書こうとしているなら、買え。

朝日新聞編集手帳(一面の下にある記者コラム欄)の担当者:竹内氏と池上彰氏の文章術対談本。名文賞賛、実際に書いた記事の解説などを通して、両氏のテクニックを知ることが出来る。

例えば、新聞という不特定多数を読者にしてきた竹内氏は「雨をテーマに記事を書くとして、週末は雨で困ると書けば、農耕者からは雨が降らないと困るとクレームがくる。全方位に向けて書くというのは、こういう事に気をつけること。書いているうちにこういったことへの保険のような掛け方がわかってくる」と例を紹介する。また、放送・ラジオ原稿を手がけてきた池上氏は、そのメディアの特性上、話を引き返すことはできないから、読み上げてそのままスッと理解しやすい構成を心掛けると話す。

多くの文章術本は「まともな文章を書くこと」に重点を置きがちだが、本書では更に一歩進んだ「多数に読ませる書き方」について語られる。文章の構成や、話の展開と締めのキレ、言葉の選び方など「書く」という事に研鑽を積みたい諸君には必読の書と言えよう。 

アニメ 

 甲鉄城のカバネリ 海門決戦
其の一
 

 ンアア~無名ちゃんかわいい~アクションも最高~ってなる。

本作はTVアニメ『甲鉄城のカバネリ』の続編で、30分x3話というとても見やすい構成になっている。主人公である生駒(男)のアクションは控えめ、ヒロイン無名ちゃんがデレデレで、しかも冒頭のキャッチーな戦闘もラスボス戦も、良い所は全部無名ちゃんが戦います!更に、ファン垂涎の列車に無茶をさせるやつもやります!...とまあ、完全にTVシリーズファン向けの作品。ショートストーリーながら、この作品の「面白いトコ」全部つめこんで、ちゃんと話も起承転結ある。ええもん作ってくれたワ...

色々言ったけど、この方の感想が一番的を射ている。

ちなみに『甲鉄城のカバネリ』アニメもおすすめ。(今ならPrimeでも観れるぞ!)ゾンビ戦国スチームパンクという世界観のアニメ。カバネと呼ばれるゾンビが跋扈し崩壊の危機迫る日本で、鋼鉄の蒸気機関車で移動生活をしながら砦と化した街々を巡る。カバネに噛まれ、ゾンビ化するも人間としての自我を残し「カバネリ」となった主人公はその世界をどう生きていくのか、という話。アクションあり、人間成長あり、スチームありで非常に面白い。(ただゾンビモノなので視聴は疲れる)

OPもカッコイイんだけど、何よりOPの最初に「貴様...ヒトか?カバネか!?.....俺はカバネリだ!」って台詞が入るんですよ、そこがいいんだよな~~~!分かるか!?

この世のアニメにはダサかっこいいものが3つあって、「台詞が入るOP」「長いが叫ばれる必殺技」「戦いの最中で問われる反語法」なんだよな。分かるか!?

youtu.be

 PVは無名ちゃんがカワイイやつを貼っておきました。

 

パン

「耳までやわらかい食パン」、ちゃんと買って食べたか?