くるりを聴く春と予定された喪失としての花束、思い出にならない口伝エレベータコマンド

「ばらの花」という歌をきいて、いい歌だなと思い、くるりのベストアルバムを借りて来た。私の春はそうして始まった。春にふさわしい音楽だと思う。運転するときに聞いている。車内の決して音質が良いとは言えないステレオから、街の音とエンジン音にかき消されながら、なんだか春風に融けてしまいそうな歌声が耳まわりを流れていく。脳は通過しないようで、さっきまで何を聞いていたか、今が何曲目か全然分からないが、心地良さはある。春に紛れて。春の心地よさに紛れて。

新しい音楽の発掘、というものをしなくなってしまった。もともと音楽というものにそこまで興味がない(Play musicもしない)というのはあるが、昔のようにネットサーフィンのように知らない曲を聞くこともなくなってしまった。それでも時々、何かのOPやEDやテーマソングは良いなと思って聞いている。たぶん、私の音楽を聞く気持ちよさには感情の想起がある。自分の昔の思い出だったり、アニメや映画やゲームを鑑賞したときの感動を反芻している。だから音楽に物語性を求めているんだと思う。それは音楽鑑賞としてはかなり内向的で、音楽を楽しんでいるというよりは音楽を利用して楽しんでいるといった方が正確だ。別に悪いわけではないけど、新しいものに触れなくなった自分ってあんまり好きではない。でも知らないものをたくさん聞いて自分に合うものを見つける気力と体力が無い。

だから、こうしてまだ聞いたことのないバンドのアルバムを聞くのって久しぶりだった。そして、音楽って、ああそうだ聴き流しても良かったんだったんなと思った。思い出した。どの曲が一番よかったか、そもそも何を歌っている歌なのか朧げにしかまだわかってないんだけど、きっとこれから春には、くるりを聴き始めたことを思い出すだろう。

 

 

花束を貰うのが苦手である。

というか、自分に植物を愛でるという風習がない。もちろん美しいと思うし、貰った瞬間はとても嬉しいのだが、そこから日々状態が下方へ滑落していく、やがて枯れるというのが苦手だ。たぶん「枯れていく過程を楽しむ」ということができないと考えている。枯れていく過程について感じるものではないとはわかっているのだが。そんな、あまりにも近い死をどうしてわざわざ手にしようとするんだ…。

思えば、昔からこの「ここが最高潮であとは終わりに向かって落ちていくだけ」みたいなものが苦手だった。祭りや修学旅行は始まった瞬間に憂鬱になっていた。あんなに楽しかった準備も、楽しみにする気持ちもここがてっぺんで、ここからだんだん喪失に向かって滑っていくだけなんだ。そう思うと寂しくなる。予定された喪失が怖い。

時折、玄関に花を飾る生活をしている人に出会うと感動してしまう。自分には無い感性だ。慈しみが傷付くことを恐れない。私は恐れすぎて生花に対する慈しみを枯らしてしまった。

 

『植物図鑑』という恋愛小説に「好きな人に植物の名前を教えると、その植物を見るたびに名前とともにあなたを思い出す」という話が載っていた。そういうこともあるな、と思う。でもそういうことがないものもある。

え?

あの日、私の横で、二人きりのエレベータの中で、7階を押し間違えた彼女が7階のボタンを素早く二回押して、それから正しい9階を押した。エレベータは7階を通過し、目的地の9階に到着する。そうだ、それでいい。それは十年前に私が教えた。でもきっとそんなこと覚えてないだろう。

私も誰から教えてもらったのか、もう覚えていない。

エレベータコマンドというのがあって、例えば「階を押し間違えた場合に素早くそのボタンを二回押すと選択が解除される」といったものがある。エレベータ内のどこにも書いていない操作方法だ。コマンドはエレベータの製作会社によって違うのかもしれないし、そもそも無い場合もあるのかもしれない。でも、そのどこにも書いていない情報を、私たちはわざわざ調べるわけでもなく、誰かからの口伝で(あるいはインターネット上の噂話で)聞いて、知っている。そして、ある時知らない誰かにも教えている。

都市伝説じゃん。都市伝説である必要はないのに。

伝説というほど虚構もなく、でも情報というほどそこに正確性は求めていない。どこにも書かれていない知恵を、別になくてもいい知恵を、私たちは誰かから教えてもらって誰かに教えていく。そしていつ・誰に教えてもらったかは多分忘れている。

思い出にも伝説にもなれない口伝エレベータコマンドがいまも脈々と継がれていく。