遥かなる春が鳴る

薄い青空が果てし無く続き、さよならの匂いがした。

春目前、雪が積もるこの土地では未だ冬の名残を含む冷たい風が流れ、咲き始めたばかりの梅を揺らす。カーディガン一枚羽織るだけでは少し寒い。
廊下では帰り支度を始めたり、これから卒業生を見送るのだと話す同級生で溢れかえっていて、私は胸に抱えた本をぎゅっと抱きしめ、人の間を縫うように歩いた。

三階の図書室。
扉をあけると、最後の日だというのにいつもと変わらないように本棚を眺めている先輩がいた。
はためく生成り色のカーテンが光を舞い散らし、少し目が眩む。
「先輩、」
声をかけると、先輩は懐かしそうに、私を見て、笑った。

名前を呼ばれて、久しぶりのその声の柔らかさにどきどきした。

外国文学とルポタージュの本棚の間で先輩と向き合う。
「卒業おめでとうございます」
ありがとう。天使が抜けるような沈黙があって、それから少し笑った。どこへ行くかは聞かなかった。先輩は私の方を見ながら、右手でJから始まる作家の小説の背表紙をゆっくりとなぞった。ピアノの鍵盤を滑るような指先、そしてタタタタという微かな音。
「これ」
青いブックカバーで覆った文庫本を差し出す。右端に小さなピンクの造花を貼り付けてある。先輩、おめでとうございます、あの、

ありがとうございました。

泣いてしまうかと思った。微かに触れた指先は骨っぽくて、冷たかった。
手を掴んで、その頬に触れてしまおうかと思った。先輩、
憧れは恋に変わっていたのかもしれない。ただそれでも自分には何も言えないことが分かっていた。きっと、言ってはいけないのだと思っていた。

ありがとう、と声がして、やっぱり喜びと同時に胸の奥が苦しくなるような切なさがあって、どうにもならなくて、ただ全てを春の所為にして、言葉も涙も飲み込んだ。
またいつか、
という約束のような思い出の締めくくりのような台詞で、私は先輩と別れる。

連絡先もしらない。
もう、きっと先輩に会うことはない。ただ、少しの時間を共にしただけで、ただ多くの言葉を交わしただけで、それはきっといつか。
いつか。

何も始まらない春と、ただ散っていくばかりだった想いが、風に溶けていくのが分かった。