パンに乗っ取られた抒情と手元にある5年目の傘、そして綺麗な部屋の綺麗なままの本たち

学生の頃よりもずっとずっと四季の移り変わりに鈍くなったなと思う。今はもう、私の四季は大福みたいなホイップあんぱんによって認識されている。

2008年にフジパンから発売された「大福みたいなホイップあんぱん」は白いふかふかのパンの中にホイップクリームとあんこが入ってて、洋菓子とパンのちょうど間をふわふわ漂っているような味がする。美味しい。むしゃむしゃという擬音がよく似合うパンなのだ。このパンが季節によっていちごとかさくらとか抹茶とかに姿を変える。スーパーマーケットの菓子パンコーナーで、季節限定の桃色や緑色になった「大福みたいなホイップあんぱん」を見ると「もうそんな季節か」と思う。

毎年何を着ていいか分からない4月とか、暑すぎて殆ど部屋にいる8月とか、服を買おうと思っていると通り過ぎる10月とか、やたらと忙しい1月とか、もう、四季をまともに生身で感じて、地球の公転にその身を委ねる時代は終わってしまっていて、大きなものの流れはパンくらいでしか実感ができない。まずパンで始まり、浅い緑の匂いを思い出し、また次のパンで、ハッと青すぎる空を見上げる。

もうだいぶさくら味を見なくなってしまった。そろそろ春も終わると思う。

 

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手元の淡い黄色い傘を見て、新しい傘が欲しいなと思った。でもこの傘はまだ使える。全然使えるんだ、ちっとも破れていないし折れてもいない。

眼鏡と傘の買い替え時期がわからない。少し違うな。厳密には、買い換える必要と気持ちの切り替えの周期が全然合わない。

昔、金沢に住んでいたことがあって、あのころは1年に3回くらい傘を買い換えていた。金沢はしょっちゅう雨が降っていて、そしてやたらと風が吹いていて、とても簡単に傘が壊れた。どうせ買ってもすぐ壊れるし、と傘は年々安価なものに下がっていったし、買いなおす手間を憂いたものだが、買い換える必要が殆どなくなるとこれはこれで悲しいものである。服や帽子を買い換えるように、傘を、気持ちを変えたい。でも手元の傘はまだ使えるし、傘って一人で2本も3本も持つものじゃない…と思う。たぶん。本当におしゃれな人は複数持っていたりするんだろうか?

眼鏡にしても時計にしても傘にしても、おしゃれ目的で複数持つほど自分は「おしゃれ」に生活(お金とかスペース)を割いてなくて、そこに価値を見いだせていない。必要がなければ、3年後もこの黄色い傘を差しているだろう。変えるきっかけが外側から来てほしいんだと思う。誰かからプレゼントでもらうのが一番良い気がする。それか、とてつもない大きな嵐が破壊してくれるのを待とう。

 

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本が読めなくなる波がきている。

読書は趣味であると同時に、読み続けることにある種の矜持をもたらすものであった。だから、読めない時期は「本が読めない!どうしよう!好きなはずなのに…」という焦りと情けなさがあり、そして無意味に傷ついていた。でもTwitterを見ていると意外と「本が読めない時期が来てる」人はいるみたいで、リハビリ読書とかいう言葉も流れていく。そっか、それで良いんだ…。(それで良いらしいです!)リハビリに漫画を読む人もいれば、好きなジャンルの本を読む人もいる。私の場合はどうだろう…確実に面白いタイプの読みやすい本を読む、かなぁ。十二国記を読み直してみたりとか、好きな作家の未読の新刊を読むとか。

本が読めなくなる波の向こう側には、たいてい生活の忙しなさがある。脳の中の情報整理という漠然とした部署に、読解と日常タスクとQOL向上の3つを詰め込んでいるので、バランスが崩れると読書が全然出来なくなるか・部屋が汚くなるのである。

今は、部屋が綺麗で本が読めてない。