ライトノベルはどこまで飛べるか

22歳。
そろそろライトノベルを本気で楽しんで読めなくなってきたな、と感じる。

中高生の頃は、電撃文庫からスニーカー文庫コバルト文庫まで、授業中ですら読むほどにライトノベル漬けの日々だった。
あの頃はそこに書かれている非現実的な日常生活にわくわくして、その世界観に体ごと突っ込んでいくような読み方をしていたと思う。
そろそろ終わりかと思ったのは、高校の時に十二国記を読んだ頃だ。
非常に面白かった。が、きっとこれを中学のときに読んでいればもっと楽しめただろうと思った。根拠はなかったが、自信はあった。

もとより、本には読む旬がある、というのが自説である。

ティーンズ小説はやはり10代に読むのが一番楽しめるだろうし、易しい本でもエンデの『モモ』やジュペリの『星の王子さま』のように子供の頃には分からなかった良さが成長と共に実感となって染み出すこともある。
その本が一番楽しめる時期、というのがある。

おそらくライトノベルも10代が一番楽しめる時期なのだろうと思う。
軽い小説と言われているだけあって、最近のライトノベルは特に主人公の独白や会話文で何ページも物語がすすむし、読みやすい。

しかし、何故段々読みやすい筈のライトノベルが読めなくなっていくのだろうか?

食の好みが変わっていくように、本の好みも変わってはいくのだろうが、
この「ズレ」は好みだけが理由ではないと思う。


話は脇道にそれるが、最近になって『クレヨン王国』を読み直した。
小学校低学年くらいの頃によく読んだシリーズだ。(今回は一番スタンダードな12ヶ月を読んだ)
知らない・忘れたという人のためにもあらすじを軽く紹介しておこう。

クレヨン王国 新十二か月の旅 (講談社青い鳥文庫)

クレヨン王国 新十二か月の旅 (講談社青い鳥文庫)

みそかの夜、めざめたユカが見たものは、なんとクレヨンたちの会議。王妃のわるいくせをきらって家出した、クレヨン王国の王さまは、いったいどこにいるのだろう。早く王さまをつれもどさないと、王国はたいへんなことに……。そこで王妃とユカの、王さまをさがす、ふしぎな旅がはじまった。

というような物語なのだが、このお話、始まり方が物凄く唐突なのである。
クレヨンたちの会議を目撃するユカはそれを全く不思議とも思わないし、突然クレヨン王国王妃がやってきて「旅に出ましょう」とユカの手を引いて異世界に旅立っても、ユカは殆ど疑問も恐怖も持たずに、強引な友達に連れられる、くらいのノリで旅を始めるのである。
その後、異世界なりの不思議な現象(木が喋ったり動物が喋ったり)を見ても、殆ど驚かない。

エエエエエエいいのか。

と、思ったが、そういえば自分は子供のころ、この本に対して何の疑問も持たずに読んでいたなと思い出す。
また、学研まんがシリーズ『エレベーターとエスカレーターのひみつ』という本も読んだのが、これもまた突然タイムスリップしたり、過去の偉人がフレンドリーに一緒にエスカレーターについて学び始めたりと、

児童文学はキャラクタの環境に対する順応性が異常に高い。


一般文芸、特にシリーズもののミステリなんかは主人公が何度も殺人事件に遭うことに対して合理的な理由付けとして、体質や職業や交友関係とキャラクタの性格に何かと特性をつける。ミステリに限らず、何故その女が其処へ向かったのか、何故子供はそういう行動をとったのか、こと細かに説明がある。
そう、大人の世界では因果の糸は「なんとなく」では繋がれないのだ。

その点、子供はその因果の糸を軽々と飛び越える。
行動があって、結果があれば、理由なんていうものは自分の頭の中で補完されていくのだ。主人公だから、という理由だけで何でも出来るのだ。
だから扉の向こうは簡単に異世界に繋がっているし、そこに飛び込むことに躊躇いがない。なんで?という不条理は簡単に飲み込んでいく。



ライトノベルにあるのはこの因果の飛翔ではないか?


何故か平凡なはずの主人公は女の子に言い寄られる。世界は幼い10代の子供の肩に伸し掛かる。セカイ系、と呼ばれるそれら(を楽しむの)も「なんで?他の人は?大人は?どうなってるの?」という疑問を飲み込むところから始まる。

言ってみれば、行く先々で事件に遭う名探偵がヒーローではなく死神に見え始めたあたりから、我々は大人になり始めたのではないか。いつの間にか無意識に物語の中の別世界を自分の常識・現実の物差しで測るようになってきている。

以前、

そういえば小さい頃、漫画や作品にのめりこんで自分がそこに居る空想をすることがあった。
登場人物達は物語の外で私と一緒に遊んでいたし、世界の端に作者もしらない私が作った場所があった。
大人になって、作品はただの作品なのだと、登場人物はデータなのだと気付いてしまった。今では、私はいつも現実に居座って彼らを眺めている。
あの頃の自分にとって物語は作品ではなく「違う世界」だったのだろう

夜が近付いても歩き続けていた - 千年先の我が庭を見よより

という記事を書いたことがあったが、やはり大人になるにつれ「他の世界の存在」というある意味パラレルワールドのような感覚を純粋に創造できなくなっている。

こうした子供特有の不条理甘受性や、因果の飛翔がライトノベルには微かに残っているから、段々飛べなくなって、理由や説明の溝の大きさに気付いて、いまいち嵌りにくくなるのだろう。

ライトノベルの軽さは何処まで飛んでいけるものなのか?
どこまで、世界の見えない部分を拡げて、着地していけるのか。


或いは、ライトノベルを楽しめる、というのが僅かに残っている(未熟さとは別の)子供らしさなのかもしれない。