やさしナリンと英語長文読解、深遠の如き愛の化身としてのねこちゃん

前回、『不確実性憐憫』というタイトルで書いた雑記だが、あれは舞城王太郎先生が言うところの「やさしナリン」であるとの自己解決に至った。やさしナリンが何なのかは各位短編集を読まれたし。

キミトピア

キミトピア

 

やさしナリン、舞城作品の中でTOP5に入るくらい好き。あとこのキミトピアっていうタイトルも超好き。

 

 

ずーっと英語を勉強しないとな、と思い続けている。

ちらほら勉強しているのだが、なんか大学受験の時にだいぶ必死に勉強するのに疲れてしまってあんまり真面目にやっていない。とりあえず今の課題は英語長文を読むのに慣れないといけないなーと思っている。それでいくつか簡単な洋書だったりショートストーリーを読んでみるものの、これがぜーんぜん楽しくない。面白い小説は難易度が高すぎるし、興味のない文章を読むものほど楽しくないものはない。マーサのどたばた女人生とかどうでもいいのよ。

...と色々図書館などで借り漁っていたところ、やっと最高の一冊を見つけることが出来た。

村上春樹「かえるくん、東京を救う」英訳完全読解

村上春樹「かえるくん、東京を救う」英訳完全読解

 

 これ。

タイトルどおり、村上春樹の同書を完全英訳した本なのだが、

①見開きで英語と日本語が載っている

②見開き分の英訳についてかなり詳細な訳の解説がついている。

この②が非常に面白い。

例えば作中では「かえるくん(Frog)」のことを主人公は何度も「かえるさん(Mr.Frog)」と呼び、そのたびにかえるくんから「かえるくん、とお呼びください」と訂正される。シーン毎でこのかえるくんの返答の持つ空気は変わる。「いえ、かえるくんと」「かえるくん」「かえるくんとお呼びください」...単純な訳としては”Please call me"Frog"”だろうが、そこをその度のニュアンスとしてどう訳したのか、が詳細に綴られている。また同意義単語の使い分け(例えばhugeとgiantic)などのチョイスについても詳しく説明されている。勿論、文法の使い分けや読まれる英語圏の文化背景、言語の自然さへの配慮などもちゃんと解説されていてるぞ。

普通の英語学習における文法書、翻訳要請講座とも少し雰囲気が違う、「この文脈・ニュアンスならこういう風に訳す」という過程がとても面白い。複数形や時制などの基本文法の解説もあるし、「この原文ではここにこういう感情があるから、強調として/時制として、この文法を使う」という文脈を加味した英訳を知ることができる。そう、そこなんですよ。文法書で「強調のための倒置」とか「分詞構文」とか言われてもイマイチよく分からなかったんですが、アアー!この流れでこういうシーンでこういう風に使うのね!という具体的なシチュエーションでの例文は非常に理解しやすかった。私は分詞構文の(日常)使いのイメージが全然掴めかったんですが、小説読んでやっと分かりました。

仕事でたまーに英訳を頼まれたりするんだけど「日本語の文章→英語用の日本語の文章→英訳」という脳内の変換手順を踏んでいたので(原文ママは”そういうことなのでよろしくお願いします”みたいな行間に含ませたニュアンスが大きすぎて直訳できない)こういう風に考えてやっているのか、という思考回路を読むことが出来てとても参考になった。本書でも「日本語の”がんばってください”は英訳し辛い単語の一つ」と書かれていて、日本語の言語特性も味わうことが出来る。便利だよね、そういうフワッとしたメール文とかの締めくくり単語シリーズ...。

あと単純に村上春樹の短編は、舞台上での時間や物語の転換が緩やかかつ小さい(まだるっこしいような氏特有の描写)し、読んでいて面白い(ハルキは短編のほうが面白い)ので、タノシク最後まで読むことが出来るよ。

象の消滅』バージョンもあるようなので、次はそちらを読みたい。

 

 

「トロとパズル」なるスマホ向けゲームがリリースされたらしい。 

トロとパズル、どんなゲームなの?と聞くと「トロに言葉を覚えさせる事ができる。登録されたフレンドがいれば、フレンドが覚えさせた言葉も覚えて帰ってくるよ」という答えが返ってきた。なんて凄まじいゲームなんだと思った。ひょっとしたらそれは、えっ..............ちな事よりもずっと凄まじい愛憎を生んでしまうのではないか?自分の教えた言葉で喋っていた愛らしい立体的なねこちゃんが、ある日全く知らない言葉を覚えて帰ってくる。ねこちゃんの、人格レイプみたいなものじゃないか?

言葉は世界だ。人間性というものがその創造性にあるとしたら、言葉はその創造性の源泉であり、すなわち人間性と個性は駆られる言葉にあるといっても過言ではない。全ては言葉から始まる。音楽に絵画に彫刻に言葉が不要だなどというには嘘だ。言葉という理解のフィルタを通して、(独自の)知覚と構築が行われているのだ。言葉が無ければ音楽も自然音も同じだ。

ねこちゃんに人間性という表現は些か抵抗があるが、その人間性、更に言えば唯一無二の個人としての人間性を…愛の結晶とするなんて凄まじいゲームではないか?しかもそれを善意で蹂躙できるってどんな精神を持ってプレイすればいいゲームなんだ?

だいじにだいじに育てたねこちゃん…。

「覚えて帰ってきた言葉を忘れさせる事も出来るよ」

それこそなんと恐ろしい、恐ろしいことよ。自分という人間のエゴをむざむざと見せつけられる行動ではないか。他人に刷り込まれた知識を受け入れたくない、私だけのねこちゃんであって欲しいなどという醜い自分を認めたくない。私が教えた言葉だけを話してにこにこしてるねこちゃん…。他の世界は知らなくて良いの、ずっとずっと…狭い世界で幸せだけを知っているねこちゃん…でもサヨナラ、いつかは飽きちゃうのよね。

怖くてそんなゲーム出来ない。