夏の九月


地平線が暗い黄金に輝き、頭上では深く澄んだ青色の昼間が少しずつ星々に呑まれようとしていた。
指先から夜が伝わってくる。
行くあての無い生命が風に揺れていた。
僕だ。

あの頃、このくらいの時期のこの時間に迷子になることができた。
河原だったり路地裏だったり、考え事をしながら歩いていると、大抵知らない場所を歩いていた。
電線のようなものが中空に張り巡らされていたが、あれは細い縄だったと思う。
立ち並ぶ家々には人がいるようで、いないようで、それらは夕暮れ時特有の家人以外の立ち入りを許さない空気を内包していた。
いつの時代も、どんな場所でも―――境界を作ることで存在を可能にしている概念というものがあるのだ。
僕は一人、知らない道を歩き続ける。
知っている道だろうが知らない道だろうが、歩くために外に出てきたのだから、何も変わらない。
こうして不安定な世界の表側に触れたときに、何を僕の普通としておくか―――そういうことを予め決めておけるほどに僕は強くなったのだ。
そういう僕に僕はなりたかったのだ。

冷えた指先を首筋に当てた。
こうして夜がゆっくりと身体に滲み込んでくる。

僕はしばらく迷子のまま歩き続けた。
太陽が西の彼方に沈み、月が煌々とし始めると地平線は黄金から赤紅色に染まる。
紫を忘れたような闇が街を多い、ぼつぼつと街頭が帰り道を照らし出す。
四つおきに梟のような鳥の意匠が凝らした街頭が立っていた。
遠くで犬の鳴き声が聞こえる、鳥が一斉に羽ばたく音がしている。
いつだって振り返り、道を戻ることができた。できた筈だ。
ただ、なんとなく振り返り道を戻ることはルール違反なんだと思っていた。
少なくとも僕が今まで読んできた小説では、こういう時にそういうことをするとだいたいバッドエンドだった。
僕はそういう、そういう世界の定石は重んじるタイプだ。
ハッピーエンドが好きなんだ。
ハッピーエンドが好きなんだと、言えるようになってきた。臆面もなく。

街の果てから最後の赤が消え、自分と夜の境目が滲み出していく。
このまま風と水に流されて、曖昧になりたいと思っていた。

あの頃、このくらいの時期のこの時間、夏の最後を思い出させる九月の黄昏にだけ僕は迷子になることができた。
すっかり暗くなった街で、電柱に着けられた飾り気の無い電球を頼りに、僕は歩く。
風と夜と水と星が、僕の横を通り過ぎていく。