彼岸の雷鳴

絡み付く真夏の雨に彼の拙い弱さを思い出していた。
どうやら私達は雨雲の流れる方向とは逆に走っているようで、サイドミラーにちらりと映った遠くの空はまるで世界の終わりのように黒ずんでいた。
強い雨音に掻き消されているが古い音楽が流れているのが分かる。
「人は、」
視界を塞ぐ酷い雨が前後の距離感を殺していた。
はるか遠くで空の唸る音が聞こえる。
「人は死んでから七日ごとに七回の裁きを受けて、生まれ変わる」
「だから、四十九日?」
「そう、仏教では。」
零れ落ちていく雨水が血管のようにうねり踊っている。
悲鳴のような閃光ののち、絶叫のような雷鳴が轟いた。

その文章を読んだ人間だけが、死者が死後6時間見る夢に入ることができる能力を得る。
その文章は、本の中、ときわけ事典をよく好んで滑り込む。
私がその文章に会ったのは、ブリタニカ百科事典のヒトヨダケの次の項だった。
ページを捲り、手を止めてもう一度前のページに戻ったときにその文章は既に無かった。
もう一度ページを捲ろうとしたときに、ふと忘れていた2日前の約束を思い出すみたいに、不思議と何が出来るようになったかはわかった。

初めて死者の夢に入ったのは、15歳の時だった。
どうやら物理的な距離に制限があるようだったが、一方で死者の器の状態には制限はないようだった。
すっかり小さな骨々になってしまった木嶋の横で、私は彼女が残した音楽の残りを聴いていた。
いつの間にか寝ていた、引き摺り込まれていた。
「違うんだな、それが」
「違う?」
「死者が君に引き摺り込まれているんだよ。いつだって生きているほうが強い」
ふふ、と彼女は生前と同じ笑い方をする。「ねえ、乗せてくれるんでしょう?」
いつも通りに、と言外に言葉を含ませて彼女は私の肩に両手を乗せて、後ろに跨る。ぐらり、と彼女の体重で傾きかける自転車を支え、私は走り出す。
生命力に溢れた緑がアスファルトを侵食している、水溜りを避けながら私はペダルをこぎ続ける。
「これってどこに向かって走っているかわかる?」
分からない、でも走り続けないとこけちゃうから。「あの世だよ、あの世。」
「あの世に向かっているのさ!君のその能力はね、死者の夢に入って、塗り替えて、こうやって死んじゃった人のあの世への道案内ができるんだよ」
「なんか嘘みたいな説明タイムがきたね」「神様がさ、野々木は初めてで全然わかってないだろうから教えてやれって」「気が利く神様だね」「嘘だよ」
ふふ、と彼女は生前と同じ笑い方をした。
その後彼女は、あの世と書かれた冗談みたいなバス停の前で、自転車を降りていった。
「大抵はさ、多分世間のイメージどおりの船とか?で橋とか?で渡るだろうけどさ、野々木はさ、野々木が夢に入るとそれを自転車とかにすることができるんだよ」
これが最後なら、きちんと、折角なら、何か特別なことを話さなければならない時間だったのではないだろうか。
「ふふ、私は楽しかったよ。」

視界の端で点滅する橙色のウィンカーがはるか遠くの街並みの明かりと混じりあって、車外の世界が総て溶け合ったような錯覚に囚われる。
緩いカーブの先を走る無数のヘッドライトの流れはまるで精霊流しのようで、遥か遠く西の空は暗澹たる朱金に染まり、無数の死者と共にこの世の端へ向かっているような気がした。
私がこの夢で高速道路を選んだ理由のひとつがこれだ。ずっと思っていたのだ、あの世へ向かう道はこういう風であるのだろうと。
いつからか、この夢は死者に与えられた虚構の猶予だということが分かってきた。
これはあくまでただの夢で、ミステリィの最後の謎解きシーンではない。
謎も秘密も何も明らかにならないし、分からないことは分からないままで、私はただ何かを運転していて、最後にどうでもいい話をさっき死んだばかりの人と話すだけの能力だ。
古いウイスキーのようなジャズを聞きながら、アクセルペダルを踏み込む。
「君は荒天が好きだったな」
彼がクーラーの効いた車内の、少し冷たくなった窓ガラスを撫でる。
「今も好きだよ」
今朝方から身体に残る後悔を振り払うかのように更にアクセルを踏んだ。次のインターで降りる。
「僕もだ、僕も今も好きだ」

次のインターで降りる。