文字の食卓

文字の食卓

石井中ゴシック、光村教科書体、ツデイ……といった様々なフォントの美しさと思い出について語られたエッセイ。
フォントそのものの数学的な美しさを語るというよりは、そのフォントから喚起される感情と思い出について綴られている。
例えば青春時代によく聞いていた音楽がふとラジオでかかっていると、その頃の思い出・教室の匂いだとかを思い出す……、
そんな誰しも感じたことのあるような経験のフォント・バージョンだ。

この作者は、昔からフォントというものにとても魅せられていたらしく、
幼い頃に読んだ絵本や本、雑誌の煽り文句のフォントひとつひとつに思い出を宿している。
そういったフォントひとつひとつには使われた絵本や漫画の内容と合わせて、独特のイメージを与えている。

例えば「石井細明朝体横組み用かな」は「キャラメルの文字」。

目に絡み付いてくる粘度、と言えば伝わるだろうか。歯のあいだに残るような後味。ちょっと端が焦げたようなほろ苦い感じもする。
〔中略〕かな書体にしてはめずらしく、ねっちゃりとしたやわらかさだけではない、切りっぱなしのような硬質さも感じられる。口に入れたらカツンと歯に当たりそうだ。
(正木香子、『文字の食卓』本の雑誌社、2013年、173頁)

そういった視点で文字を見てみると、確かに「ねっちゃり」というイメージがよくわかる。
ボールペンのインクが尾を引いて「さ」や「な」の丸みにとろりとした曲線が残るような、
ひらがなという文字だからこそ良く分かる「ねっちゃり」がとても強く出ているのだ。

この本でもそれぞれのフォント使用の例として絵本が多くあげられているように、
絵本は子供向けということもあってひらがなが多様され、かつ文字サイズがとても大きい。
ぐりとぐら、エルマーと竜……そういった絵本にはいつも必ず美味しそうな食べ物が出てきた。架空の食べ物も。
あの頃感じていた「おいしそう」という気持ちはきっと、単語だけではなくきっとフォントという視覚的なイメージからも喚起されていたのだろうなぁと思う。

それから「フォントという視覚的なイメージ」を利用した例として面白いと思ったのは、漫画である。
本書では、ジョジョの奇妙な冒険こち亀ドラゴンボールなどを例に噴出しの中の台詞から、
台詞に感情を加味する、という行為がフォントによっても行われていることを紹介している。
例えば、ホラー映画でよく使われるあの文字(淡古印という)は、この文字が出てくると「なにかおどろおどろしい内容である」といったイメージが先行する。
今や「恐怖」のイメージを纏うこのフォントだが、元は落款や社印用の「印章文字」であったというから、面白い。
イメージに合わせてフォントが作られたのではなく、直感的なイメージがこのフォントを「ホラー文字」にさせたのだろう。
本書ではドラゴンボール十二巻のピッコロ大魔王の台詞として紹介されている。

逆に最初からイメージを基礎に作られたフォントとして、「ナカフリー」が挙げられている。
手紙文のサンプルなどでよく使われる文字らしいが、確かに文字は滑らかで、女性的な品の良さが滲みでている書体である。
この文字は中村征宏氏が「ふだん妻がかいていた文字を、大きさや中心が揃うようにデッサンし直して」つくったものらしい。
……なんて素敵な生い立ちだろう!
手書き文字ににじみ出るその人らしさ、性格といった人間味をそのままにフォントにしてしまうなんて。
だからこそ、手紙文という「手書き」のサンプルに多く使われているのだろう。

本書を読んで、文章を読んでいて思う「〜な感じ」というのは、単に形容詞や名詞のイメージだけではなく、フォントの視覚的イメージに因るものも大きいのだな、と改めて強く感じた。
特に漫画では、決まったフォントだけが画一的に使われているわけではなく、台詞に応じて様々なフォントが使われている。
書店に並ぶ「本」というものには、物語や文字の並び、ブックデザインなど様々な要素を完璧にした結果であるが、その中のひとつ「フォント」というものに拘る重要性というものをとても面白く綴ったエッセイであると思う。

そういった、普段目を向けていなかった「なんとなく感じること」の根源について、気付かせてくれる一冊。