アイデンティティの限界

近頃SFを読んでいる。
SFのメインテーマの一つは、おそらく「人間はどこまで人間でありえるか」だろう。多くのSFにおいて、人間の進化はアイデンティティの揺らぎとともにある。身体的に"動物"から離れることによって意識も"機械化"されていく不安や困惑が描かれる。(あるいはその逆も)

未来化というのは細分化に近い。
例えば人間というものをまず形而上・下というものに分けて、そこから更に意識・魂、脳・臓器というように、パーツ分けする。
そうやって分業化されたパーツは「躯」という枠組みに囚われなければ、更なる性能強化が出来るはずである。

これは即ち「分業化(division of labour)」だ。
アダム・スミスは、分業が生産力の発展に役立つと強調した。
産業革命前は、基本的には一人の職人が全ての工程を担い、製品を完成させていた。よって一人の職人を一人前になるまで育てるのに非常に時間が掛かる。その分のコストも莫大である上に、一人前になるのが遅いから、一人あたりの生産力は必然的に小さいものとなる。
しかし、それを分業・専門化させることによって、熟練工業者でなくとも労働が可能になり、生産力は増大した。

これと同じ事を人間で行おうというのが、「未来化」のサイエンス・フィクションではないだろうか。
人間というものをパーツ毎にわけ、分業し、専門性を強化する。その為に、分離し、外部移植する。
こう聞くと、まさしくフィクションの話のように聞こえるが、現実はおそらく想像以上にフィクションに近い所にあるだろう。

例えば記憶。

全ての思い出を常に記憶しているわけではない。ある時ふと、同じ香り、風景、状況に陥った時に思い出す方が多い。
そしてそれを容易にするために写真やビデオ、日記がある。
個人的には音楽も含まれると思っている。
こうして人は外部メモリを増やす事で「記憶する」を行っているのだ。

知識もそうだろう。

情報化社会と言われ、大体のものは調べれば出てくる。検索すれば分かる。
知識を詰め込む必要は無いのだ。
散らかった部屋で「そういえば鋏がこの部屋にあったな」その程度の認識で鋏は手元にやってくる。鋏が何処にあったか、具体的にどんな形をしていたかは重要でないのだ。
こうして覚えることの分業化が進んでいる。

攻殻機動隊だとか、女王百年の密室だとかで問われる「人間とは何か」というテーマはおそらく「分業化されたシステムの中で分業を担うその一つの労働は、果たして"製品"に対する意識があるのか?」という疑問へと繋がるのではないだろうか。つまり「自分がボルトを作っているのか、それとも自動車を作っているのか」
いやいや、自分の作っているものくらい分かるだろう、という人は伊阪幸太郎の『モダンタイムズ』を読んでみると良い。全体としての悪事も、一人一人に分業され、そして「全体像を知らされなければ」悪いことをしているという認識のないまま労働は続くのだ。そしてそれが可能なくらいには社会はシステム化していると。
同様の事が人間で起こったときにそれがアイデンティティの限界として問われるのだろう。
自分が自分であるか、というのはつまり、自分の動かす手足・意識が自分の管理内にあるのか(もっとファンタジックに言えば手足は私の奴隷としての意識があるのか)という不安なのだ。

勿論、そういった不安や困惑すらも分業化された時、果たして「人間とは」と悩むだけの意識があるのか、そしてそれが人間と呼べるのかという疑問はある。
論理学で言うところの「連続性の虚偽 Continuum Fallacy」だ。砂山のパラドクス、とも言われる。
"砂山から砂を一粒取り出しても、砂山は砂山のままである。従って砂山は砂を何粒取り出しても砂山である。"
さて、この弁証法が詭弁たりえる原因はなんだろうか。

正解は述語の曖昧性である。「砂山」の定義が曖昧なのだ。この手の詭弁は「繁盛店」だとか「大人気」だとか言った言葉がよく使われるように社会生活の中にも沢山ある。

さて、では「人間」の定義は……
どうだろうか?