野狐禅

後先を考えずに永遠を誓えるだけの愚かさが欲しかった。

吐き出す言葉の重さを知っている人は、とても言葉に気を使う。
それは時に残酷な予防線を張っていたりする。ただ、そういう自分に対する優しさは必須だ。

絶対だとか永遠だとか、そんな言葉は使えなくなった。一方で、どうでも良い嘘を簡単につくようになったのは、何かに対する緩衝材なのかもしれない。適当さだとか、斜に構えてみたりだとかっていうのは自分自身、みたいなものを直視しない方が良いことを知っているからだろう。
全力で生きていると、落ちるときも衝突するときも きっとそのスピードだからね。
80%くらいを気取っておいた方が、それくらいが全力の振りをしておいた方が後々楽だって事を段々知っていくんだろう。頑張れ、みたいな暴力に対しての切り札かもしれない。

思いやりと頭の回転の速さっていうのは人間社会の中にいる中で最上の防御になる。
思いついてから、それを言うべきか言わざるべきか、をきちんと判断して行動できるという賢さ。
素直に尊敬した瞬間だった。

後先を考えずに永遠を誓えるだけの愚かさは欲しかっただろうか。

単純だったものはいずれ知識と共に複雑さと難解さを孕んでいく。
全ての事象は樹木のようになっていて、幾千幾億の枝先と根が広がっているのだ。
成長すればするほど広がってそしてやがて端から朽ちていくのだろう。
「やっぱり家が一番」みたいな顔して、死ぬ間際に幼かった頃のシンプルな思いを口にしたりするのかもしれない。失ってみて初めて気付く大切なもの、なんてのは遣り尽くされたテーマだけども、やっぱり始めから持っているものの価値を知るためには、そう簡単にはいかないのだろう。最初から持っていないものの価値だって、そう簡単にはいかない。

pricelessというのは日本語の慣用句、「値無き宝」と訳される。
tintinnabulationが、もゆらと一言で表わされるように
この世にある言葉はあるべくして生まれているんだろう。必要とされて生まれる感覚なのだろう。誰しもが得る感覚なのかもしれない。欲しがる言葉なのかもしれない。

Noting so sure as death
死ぬるばかりは真

「否定も徹底すれば肯定になる」
と言ったのは血盟団事件の主犯、井上日召ですが
嘘を真に塗り替えることすら可能なこの世で、死ぬことだけは唯一絶対の真なのだというのは昔から言われている様です。

嘘と難解さと煩雑さに絡まりながら
そうやって段々ゆっくりと、真に近付いていく。