私たちはくらやみのなかで象を撫でているが象はそれを知らない

物語の本質の隣にある、最後まで対象を明確に限定する言葉が見当たらず答えが永遠に出ないマクガフィンが好きだ。

 

信頼できない語り手って(語りが)信頼出来ない語り手のことだったのか。ずっと(存在が)信頼出来ない語り手のことだと思ってた。人間なのか、妖怪なのかすら何も分からなくて、物質界にいるかどうかも怪しいというか、エムシュウィラーの小説とか埋葬されるブラフマンみたいな存在のことかと思っていた。そういう小説が好きなので探していたんだけど、そういうジャンルがあるわけでは無いんだな。

 

ソラリス読書会をした時に「結局最後までソラリスというものが明確に〈コレである〉という解決が無くて良かった」という感想が出て、あぁそうそう分かる、と思った。『藪の中』なり『羅生門』なりとそういうジャンルの小説はあるにはあるんだけど、小説そのものではなくて、その中の「物語の本質ではないマクガフィンが最後までなんだか分からないけど、物語としては全て完結して解決している(それがハッピーエンドなら百点満点)」というものが好きだ。ソラリスは少し惜しい。

 

多分、抽象的なものを抽象的なまま飲み込む(飲み込まされる)っていうことに憧れがあるんだよな。うーん、わかる?私たちの思考は言葉で成り立っていて、世界を分解していくとその最小単位は言葉になるんだけど、言葉を複雑にするとあるところから擬似的にその構成単位が霞みたいなものになる。もっと詳しく言うと、言葉によって思考というものが構成されて、複数の思考によって世界が構築されているので、世界というものが理解される時、それは分解されて言葉になる。…んだけど、言葉の「複雑さ」みたいなものの密度をグンと上げると、あるところから擬似的に…その作り出された世界が理解される時に、それは最終的に霞になるんだよ。作り出された世界そのものは変わらないんだけど、顕微鏡の倍率を上げるようにその構成要素を拡大していくと言葉にならなくなる存在が、

あるというか、あるように見せることが出来る。

そして、私はそれを見せられていたい、騙される気持ちを味わっていたい。

日々色々考える時に「抽象的なものを抽象的なまま飲み込む」ということはほぼ不可能だ。

何故なら、実存する世界は具体的なものであって、プロジェクトなり、目標なり…抽象度の高いものはたくさんあっても、それは「抽象的な存在」ではない。抽象的な存在がまず、無い。さらにどう足掻いても理解すると言う行為は、具体的なものだ。目の前にあるものは全て分解して類推して理解しようとしてしまう、私たちはそのように知性を育んできた。「抽象的なものを抽象的なまま飲み込む」というには理解を棄てることと、その放棄を許容することだ。放棄したい。文明人とか人間の尊厳という枠を超えたい。自分が自分を支えているもののコントロールから外れたい。暴力だとか狂乱だとかではなく、脳内とか精神に蟄居している常識に限りなく近いサムシングから、安全に!奔放に「脱出してやった!」と喜びたい。それはまあ、キャラクターショウを楽しむような喜びなんだけども。

 

すべての終わりの始まり (短篇小説の快楽)

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ブラフマンの埋葬 (講談社文庫)

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