かわいいがその体の肉と骨を越えて魂に辿り着く時、そこには加速がある

ディズニーのミュージカル映画『ディセンダント』が面白かった。

おとぎばなしの結末のその先、悪役(ヴィランズ)たちにも十代の子供がいたら...?という設定で展開していくストーリー。音楽もダンスも話も面白かった。映画の評価は終わり!詳しいあらすじは予告動画を見なね。そんなことよりメイヒンヒロインの女の子がかわいいって話をするぞ!そう、このヴィランズの子供のメインヒロインであるマル(マル・バーサ)がかわいい。どういうこと?はい、女の子と恋と感情の話をします。


「ディセンダント」予告編

 

この世にはかわいい女の子が沢山いる。沢山いる…っていうか日夜量産体制が取られていて、アニメだのゲームだのあらゆる媒体からかわいい女の子がポンポコポンポポ出てくる。そう、絶対的にかわいい女の子は沢山いる。

でも、魂が飛ぶようなかわいいはそうじゃない。もっと成仏しちゃうようなキューっとくるかわいさは「相対的にかわいい」にある。

これがめちゃくちゃ得意なのが京アニで、京アニは誰かに向けた特別な仕草だったり、経過で変わっていくあの人への態度の違いだったりと、相対的にかわいい女の子を非常に上手く見せてくる。(響けユーフォニアムとか境界の彼方とか)そう、ここでいう相対的っていうのは大勢の中での見た目や癖の美醜の比較ではなく、「好きとその他への態度の差」で生まれる「少女Aのノーマルな状態」「少女Aのアブノーマルな状態」の相対なのだ。恋はアブノーマル。

その相対は好きな人とその他への態度の違いとして描かれることもあるし、好きになっちゃった自分と未だ好きじゃなかった頃の自分の違いとして描かれることもある。

 

今回のこのディセンダントでは後者でした。

このマルちゃんはシニカルクールな女の子として描かれている。目的のために、王子様を自分に惚れさせて上手くやってやろうとするんだけど、王子様の「マルちゃん好き好き大好きラブラブ!」コールに段々攻略されてっちゃうんだよね。その過程で、今まで見せなかった表情をするようになってくる。特に「Did I mention*1」という曲&ダンスが挿入される時の「仕方ないなー、私はそういうの得意じゃないんだけど、まぁ…好きにすれば…」みたいなちょっとハッピーな空気に染まりそうになりつつ、クールを装おうとする顔が最高にかわいい。かわいい。そんな顔つい40分前までは全然してなかったでしょ…。

今はもう流行にその定義をズタボロにされ、打ち捨てられてしまった「ツンデレ」の根源的なかわいさである。

……

………………

………そう、ツンデレはズタボロにされてしまった。

ズタボロ?どういうことだ?

皆さんお気付きかと思いますが、既にツンデレという言葉は「暴力と媚びが混在する、好意が明らかな女の子」くらいのヒロインを表すただの流行りの売り文句になってしまった。しまいましたね。

 

流行はとにかく「抽象的に汎化」されたものが敷衍する。

ツンデレもそうだが、萌えやエモいといった単語も、もともとは既存の「かわいい」「感動する」みたいな言葉では限定できない範疇を敢えて切り取る単語だ(と思う)。しかし、それが流行すると「かわいい」「感動する」という言葉の範疇よりも広く曖昧な領域を全部カバーするとてもラクな言葉になる。そこではそのジャンルや言葉のバックグラウンドにある「特別さ」だけが内包されていて、そのジャンルや言葉の使用による効果だけは残る。でもその効果は「この言葉やジャンルはこういう風に嗜むのよ」という受け手へのマナーの強制によって成り立っている。

ここまでくるとクソビジネスマナーと性質としては同じで、扉を3回ノックしたやつが正しい世界観で皆が飽きるまで扉を3回ノックして「礼儀正しい奴」になることになる。

そこで真に女の子からある種の「カワイイ」を訴えられているのは読者である。クソビジネスマナーがクソビジネスマナー族の中で礼讃されるように、そのカワイイは萌客(墨客の萌えバージョン)で礼賛されるべきであるからだ。前述の「暴力と媚びが混在する、好意が明らかな女の子」というキャラクターにおいて、この「好意が明らか」という観測者が物語の中の男主人公…ではなくて読者に対してになった時、その「マナー」への依存が確定となる。ぶん殴った後に大好きって言うのはツンデレじゃなくて良くあるDVだ。でもフィクションの中では「ツンデレ」としてコンセンサスを無理やり取ることが出来てしまう。そうやって流行によって新しい概念はズタボロにされていく。

 

話を戻そう。

ここでは「好き」を恋という言葉で纏めているが、もちろんもっと曖昧な「好感度が突出している」くらいの感情のことも指している。…し、それは当然同性間でも異性間でも生じるし、母性愛や相棒との信頼関係のようなものも全て範疇とする。そこに共通するのは「ポジティブな特別さ」である。憎しみとか悲しみは含まれません。それは今ここで言うかわいさとは関係ないから。

そしてこの「すき(アブノーマル)」と「ふつう(ノーマル)」の間の格差を走るおんなのこの感情エレベーターの加速が我々の魂をキューっと飛ばしてくるわけだ。そう、我々は女の子の感情シャトルエレベーターに乗っています。

f:id:Rfeloa:20200415123814j:image

こういうことです。

 

ズタボロになったツンデレと本物のツンデレの差はこれです。

本物のツンデレにはこの「すき」と「ふつう」の間をもっと取った地下2階の「きらい(仮)」が設定されており、女の子の感情エレベーターの昇降における負荷をより感じることが出来るように設定されている。この上昇が大事なのに、「きらい(仮)」から「すき」への単純な感情の移動のみを切り取ってしまうと、その間で感じる筈だった魂のキューッは失われてしまう。しかし、女の子の感情の移動は済んでいるので、形式的に「キューってなったよね?普通に考えてさ」という強引な常識の押し付けによって「かわいい」が成り立ってしまう。

 

だが、そんなものに俺たちは魂を揺さぶられたりしない。

そうだろう?

 

真の女の子の感情シャトルエレベーターに乗ったものならば、そこに天国的な愉悦を感じた筈だ。

本物の女の子の感情シャトルエレベーターは気持ち良い。

分かる?分かるよね。❤︎キュンキュキューン!❤︎

なんでこれがこんなに気持ち良いのかな?

人は常に浄土(ハッピーヘブン)への憧れを持っており、「如何にして浄土(ハッピーヘブン)へ行くか」を魂のレベルで追い求めてきた。今、数多の日々に疲れ切った人類が「かわいい」に魂のリフレッシュを求めるのは、そういうことだ。おんなのこの感情シャトルエレベーターは手軽かつ刹那的に魂をハッピーヘブンへ飛ばすことが出来る。その、果てしない速度と昇降によって。

 

「かわいい」がその体の肉と骨を越えて魂に辿り着く時、そこには加速がある。