TwitterのTLにときどきファイト・クラブを読む蟹の画像が流れてくる(なんで?)ので、ようやくパラニュークの『ファイト・クラブ』を読んだ。
ファイト・クラブ規則第一条
ファイト・クラブについて口にしてはならない
ファイト・クラブ規則第二条
ファイト・クラブについて口にしてはならない
で始まる規則を掲げ、死と生の実感を求め足掻く男達のための一対一の闘いの場、ファイト・クラブ。起承転結のストーリーの妙は殆ど重視されず、ただ…そう、「暴力」でもって何もかもを解決する精神の話である。そこにある問題を解決するために暴力を振るうのではなく、そこにあるものを理解するためには暴力というフィルタを通さないと理解できない。そういう地獄に堕ちた男の話だ。
祝祭のような爆散と破壊があり、血の匂いと骨の砕ける音に意味がある。
ここでは暴力に神聖が宿る。
でも私は暴力に神聖を感じることが出来ない。
暴力とは愚かな豺虎が振るう力のことであり、感情を制御出来ない幼さの体現であると思う。思考や言語が未熟な子どもならまだしも、いい年した大人が拳で語るなどというのはフィクションに定着したある種のファンタジック・ロマンスであり、殴り合って分かり合えるものなど何もない。血の匂いと骨の砕ける音に意味はない。アホが怪我をしているだけだ。だから主人公がファイト・クラブに魅せられるのも、心が暴力によって救われ、魂が暴力によって破滅させられても私には愚かな顛末としか考えられない。もっと頭を使ったらどうなんだ?
これは言葉と思考こそが至高であるとする私の宗教による差別だ。
「話せば分かる」といった平和の祈りではなく、人間とは思考によって世界を理解し、言葉によって精神を磨ぐべきであるという信仰だ。救いは熟慮の果てにある。考えろ。力を求めるな。身体が闘争を求めるのはお前が人間として未熟だからだ。それはあるべき人間の姿ではない!
自分は理想とする精神が清廉すぎるところがある。
しかも、それが正義というもののすぐ傍にあるのがあまりにも過激である。たぶん、「正しさ」というものを教科書的に学習して行動理念にしてしまったことと、感情は思考によって制御されるべきと至ってしまったからだと思う。人生のテーマは誠実だ。人生にテーマがあるあたりも過激すぎる。
でもこういうところに落ち着いてしまったので自分はもう駄目だし、こうなるしかなかったのでこれで良いのだと歓喜もしているのだ。私は天国に行く。
私の人生にタイラー・ダーデンが出てくることはない。
これは私のための物語では無いのだ。