致命的宿命

 なんとなく不幸の数だけ幸せになれるような気がしていた。
嘘だ。
多分、そう思わなくてはやっていけなかったのかもしれない。「不幸だ」と思ったときの予防線のような。幸せで満ち足りた日々が続くと、やがて来る不幸が怖かった。

 きっと対価なしで得られるものなどないと思い込んでいたのだ。抱え込んだ負債をいつ返すときが来るのが恐ろしかった。そうやっていつもどこかで何かに怯えていたような気がする。文句のつけようの無い満ち足りた時間にも、心の奥で底冷えする不安を抱いていた。理由もなく幸福になどなれないと思っていたのかもしれない。「人生楽ありゃ苦もあるさ」という言葉に含まれた恐ろしい覚悟を一人で舐め取っていた。
 例えば何を成功とよぶのか、不幸だと思っている状況を結果と呼ぶか過程と見るかで、人生の価値はきっと変わってくるだろう。「夢を諦めない」という有体な美しい言葉はそういう価値を証左するための言葉だ。つまり本当は何が対価なのか、なんていうのは極めて主観的な判断でしかなく、幸・不幸のバランスを考えて采配しているのは神様でも何でもないのだ。
ただ、自分が上手く生きていくために、そうやって「自分ルール」を作ることで捌ききれない理不尽さや不安を処理しているだけなのだ。

 いつだって私は、終わることばかり考えていたと思う。文化祭や体育祭が始まる度に悲しくなった。私にとっての祭とは準備のことで、当日の始まりは「終りの始まり」でしかなかった。
全ての準備が終わった夜7時くらいの暗くなった校舎で、いつもと違う華やかな教室や廊下を眺めながら、ただ静かに歩くあの瞬間がたまらなく悲しかった。いつまでも何も始まらなければよいのにと、誰も居ない廊下で思っていた。

多分、今でも何も始まらなければ良いのにと思っている。
運命の歯車なんてものは回さなければ噛み合わないなんてことも分からないのに。
幸も不幸も要らないから、ただじっと時間も流れない場所を望んでいる。
という嘘。