誘導灯は月色に光る

ask for the moon 
という言葉がある。
月が欲しいと願う、転じて「不可能を望むこと/無いものねだり」の意となる。
日本語で一言で言えば「覬覦(キユ)」であろう。


人の欲求は果てしない。
しかして、どれほどの願いが月ほどの物が欲しいという願いなのだろう。
「些細な願い」とは一体何を基準に些細としているのか。
物事における疑問点は「誰にとって」という意識から考えれば理解し易い。
誰にとって些細なのか。
そう考えたとき、そこに修飾される言葉は”(現在の)自分”ではないことに気付く。
「他人にとって些細な願いが、どうして自分にはこんなに難しい願いになるのだ」
結局の所、全ての事象は差異によって、相対的に認識・評価せざるを得ない。
羨む・妬むというのは意外と理性的な感情なのかもしれない。
恵まれている事と幸せである事を、時々混同させている。

「自由が欲しい」と思ったとき自由を金に変えたとしても大体の願いは叶うだろう。

自由は金で買えるものなのかもしれない。
そして不自由というものが時間的制約による行動制限という意味ならば、時間は金で買えると言える。
ただの論理式だ。


目を隠したまま「家族って何だろうね」と傍らで呟いた。
家族・恋人・友達だとかというのは集合体名ではなく、状態の名称なのだ。
液体・固体のような。
だから、理想の○○というものを自分で描いてしまうと上手く行かなくなる。
「毎日会いたい」と思うのではなく「毎日会うのがカップルなのだ」と思い始めると大体その関係は瓦解していく。理想の押し付け合いがの関係の溝を深める。
少なくとも自分の理想は相手の理想ではないし、「普通は/一般的には」という言葉は自分にとって都合の良い言い訳でしかないのだ。しかしそれに気付くのは難しい事なのかもしれない。

本当は、両者の中でお互いに相手を友達・家族・恋人だと思っていれば、それでその関係は完結しているはずなのだ。言葉の定義を考えるのは学問の中だけで良い。

おそらく家族・恋人・友達という言葉がなければもっと上手くいっているのではないか、という関係は少なからずあるだろう。

「何であってほしいの」と答えて、寂しさの端を舐めた

そういった理想形が僕らにとっての月なのかもしれない。
自分一人では手に入らない。
そうやって地面に転がっているものを踏み壊して、幾億の星を見捨てているのではないか。
足元のスミレで満足できればきっと、それが幸せの価値だと思う、
思っていたい、
のだろう。