サイレント・エコー


http://www.kanazawa21.jp/data_list.php?g=45&d=1126
以前に美術手帖で栗津潔のピアノ炎上についての文章を読んだことがあって、一度見てみたいなぁと思っていたので足を伸ばしてみた。
今までなんだかんだと誰かと来ることが多かったので、今回は一人でじっくり作品を味わってみた。

■栗津潔「ピアノ炎上」
言ってしまえばピアノに火をつけて燃え盛っている中でピアノを弾きつづけるだけの(映像)作品。確かどこかの海岸で実演もしていたように思う。
これを見た友人が「何か不気味だった」と言っていた通り、ガスマスクをつけながらあ一心不乱に鍵盤を叩き(弾くというよりは狂ったように音を鳴らしているという方が正しい)一方で端から炎がピアノを飲み込んでいく姿はただ不気味としか形容できない。ピアノの音ももはや曲ですらなくただただ音の連鎖であり、燃えていくピアノ機能の欠陥がどんどん音を濁らせていくだけである。
「ピアノを燃やしながら弾いたらどーなるんだろー」とう発想は確かに面白いかもな、と思う。ただ実際やって面白いかと言われてしまうと「ピアノを燃やしながら弾いたらどうなるんだろーって思ってやってみました」という事実が所謂現代美術らしさみたいなもので面白いわけで、結果というのはもしかしてあんまり作品として(絵画を見て美しいと思うような)評価はされていないのかもなと思っていた。(あくまでも一般鑑賞者に)
ただ、じっくり解説を読んでみると面白いことが書いてある。

眼前に進行することの本質をある種の「葬送」であると看取してフィルムを回し……(略)

つまり眼前の事象は総てそれぞれ死に向かっている、つまり人間は生まれた瞬間から死に向かっているというような哲学なのだ。
とすると、この作品はただ「こうしたら面白いんじゃないか」という思いつきだけではなくて、死にゆくものが自ら葬送曲を奏でるという(それはまるで救急車に運ばれていく自分の体を見る幽体離脱のような)シチュエーションがこの作品の面白味なのだろうと考えた。

■久世健二「土のかたち」
中庭らしき場所、コンクリートの上に十字の墓石のようなものがいくつか横たえられているだけのものなのだが、その十字はそれぞれ少しずつ違っており(文字がかいてあったり傷があったり)何を主張するでもなく妙な存在感を生み出している。
こういった十字(架)はどうしても墓場だとか死を連想させる。
しかし解説には「墓標を示す既存の記号ではない」とか書いてあってンン?となる。確かに墓標や死を主張したいほどの暗澹や絶望感は感じられず、どちらかというとエヴァのあのセカンドインパクト死亡者の墓(広い土地に棒が綺麗に並んでいるだけのシーン)の無機質さを感じさせる、虚しさなのだ。
墓や葬式は生者のためにあるただの物や儀式なんですよ、みたいな。

世界貿易センタービルが爆破され、崩壊し、その地が「グラウンド・ゼロ」と称されて今存在する意味についての、そして世界の状況と自らの立ち居地についての普段の志向から生成された「土のかたち」である

というような解説を読むと、まあだいたい私の感じたことが作者の「不断の思考」の表現なのかな、と思う。グラウンド・ゼロという場所が本来は何も無いただの跡地であるが、そこに生きているものたちが意味だとか、価値などをつけていく。といったそういう価値観(というか思想とか慣習みたいなもの)とどこか相容れない理性(つまり本来葬式なんて金がかかるし死んでるだけだし燃やして埋めておくだけなのが一番合理的なのだ。そのはずなのにそれを辞められないのは何故か?)が「不断の思考」の意味なのかな、と思った。

こういったものを見ていると、というか解説を読んでいると大体作者の思想は宇宙だとか真理だとかにおける哲学が基になっていて、おそらく作者なりの哲学をそのまま作品にしているのだなあと思う。
多分、自分達が生きているなかで時々理解できる、幸せとは何か、人生とは何か、みたいなものへの答えをあえて創造という領域に持っていったものが芸術なのかなと思う。おそらくニュートンが学者でなく芸術家であったなら数式ではなく彫刻でも彫っていたのではなかろうか。

自分は美術の知識もないペーペーだが、多分現代アートというものは自分が感じた「なんとなく」のその感覚をもう少し深く掘り下げていくことで作者の思考を読み取って楽しむものなんじゃないかなあと思った。
正直、なんかよくわからん、という感想のものが多いし面白さを明確に説明せよ、といわれても困る。ただ、なんか不気味、綺麗、上手い、という感想だけではわざわざ人工物を見る必要性もない(空でも夕焼けでも見ていればタダだし何より綺麗だ)んじゃないかなと思う。
やはり、人が作ったものなのだ、という面白味を探っていくことが美術鑑賞の醍醐味の一つなのではないだろうか。