ノンフィクションというリアリティ

そこがこの世の果てだとしてもそれが悲観に値すべきかどうかはわかんないすよ。

”オレは↑をどこかでこの世の果ての物語だと思っていて
自分の生活環境にはまったく心当たらないフィクションとして
捉えていたのかもしれない。
全然違った。当たり前だ。この世の果てなんか身の回りに溢れかえっている。”
――ドラマ『モテキ』の監督、大根仁氏のブログより。

前に『隣の家の少女』を読んだときも思ったけれど、テレビの奥で騒がれる事件と自分を関係性のあることとして繋ぐのは少し困難だ。少しばかりの共通項から防衛意識が上がる程度のことで、やっぱりそれは自分と関係のないところで起こっている出来事と捉えてしまう。

誰かの言葉に、
障害者を排斥する人は障害者の友達がいないのでしょう
同性愛を否定する人は同性愛者の友達がいないのでしょう。
というのがあって

人は結局の所自分の見えている範囲の事しか”リアリティ”として受け取れないのだろう。
地球の反対側で起こっている飢餓問題も戦争も、小説の中の出来事と受け取り方はそう大差ないのではないかと思う。それは多分、批難されるべき事なんだろうけれど、批難できる立場にある人というのは中々居ないのではないかとも、思う。
虐待も同性愛も障碍も、きっと身近でその人の視点に立つという機会がないから、普段から何も考えず、突然表れた日常の破壊者に危機感を感じる。私だって揚々と人の事を言えるような立場ではない。

君子危うきに近寄らず、という言葉と
義を見てせざるは勇無きなり、という言葉が混在している。

そこから何か動け、というのはきっと自分の世界の外を認識するよりもずっと難しい。
ただ、自分の分からない何かもある。自分のアタリマエが当たり前でない世界もある。
そういう事を心の隅で認めておく余裕くらいはあってほしいし、自分の世界から切り離すのはきっと

いつか使う優しさを腐らせているような。
見えてる筈の目を曇らせるような。

自分と繋がらないものなんてこの世には無いよ。