青春の欠落



何故か貪欲なまでに小説や新書、映画を漁ってる。

膨大な知識を目の前に、少し眩む。

思いついたことをちょこちょこ書き留める。
後から見直して、記憶の取っ掛かりになる。悪くない。

友人と「タダで出来ることにわざわざ金を払う事によって、価値を付加する事ができるのだ。」という議題で話す。珍しく論点がズレない。

雨が降っていた。
とある喫茶店で、しらすと梅のピラフを頼んだら、調理の音も匂いも全くしないままに、料理が運ばれてきた。BGMも一切なく、音の消えたテレビがただただ、台風による洪水情報を流していた。
なんだか近未来的。未来的というのは、無機質さの濃度で決まっているのだろう。
しらすと梅のピラフは梅の味がしなくて、野沢菜が代わりに入っていた。
これ、しらす野沢菜のピラフじゃないの、と思った。
でもこのピラフの完成度はヒトの手で作った物だなと感じていた。人間性とはバグにあるのだろう。

前も同じような事を言っていた気がする。きっと気のせいではない。

一人暮らしをするようになってから、「今日はラーメンの気分だったのに、夕飯はお魚だった…」って気分になることが無くなった。食べたいものを食べるし、食べたくない時は食べない生活になっているからだろう。そういう事に3年間気付かなかったことに吃驚した。

気付くのに時間の掛かる事が沢山ある。
そういうのは大抵、問題の難しさより、自分の内面の余裕によって左右されている。

雨が降っていた。
昔から雨の日の室内が好きだった。
守られているような気がして、車の中や電気を消した部屋の中で、薄暗さと窓を伝う雨、地を穿つ水の音を聞くのが好きだった。
昔住んでいた家の自室は、窓が高いところにあって、寝転がると空しか見えなかった。夜は月明かりが綺麗に入ってきて、寝ている自分の体を照らした。白く浮かび上がった腕の、月明かりの境目は夢を隔てる境目のようだった。もうあの家は私の家ではない。

大学生活も残り半分を切ると、『四畳半神話体系』の気持ちがすごくよく解るようになる。

後悔とは別に、「もし別の選択をしていれば」きっと自分の4年間はまったく別の物だっただろうと考えられるだけに、ふと空想のパラレルワールドに想いを馳せたくなる。
ただ、もし1年の時に戻ったとしても自分は同じ選択を繰り返して、同じような結末を辿ると思う。
現状はなるべくしてなった結果だと、思っています。

人は、あらゆる分岐点で必ずその瞬間の最善を選択している。
そしてその選択の結果を直視するのが、自分の決意に対する責任の取り方です。

そうやって生きてきて、やり直したい瞬間というのは、よく考えたら無かった。

諦めなのかもしれないし、気付いていないだけかもしれない。
バタフライ・エフェクト

翼端灯をUFOに見間違えていた時代があってもよさそうなものなのに、
自分にはそういう過去がない。
でもきっと多くの人に無いものだろう。

ブドウジュースを飲みながら、これはブドウジュースだが、ブドウのジュースではないと思う。
きっと生まれたときからブドウジュースをブドウのジュースであると認識させられ、この味がブドウジュースだと信じてきた。だから我々が飲んでいるのはブドウジュースだが、ブドウのジュースではないんだ。
だって、ブドウからあんな味が、そもそもブドウ果実からあんなに果汁が取れるわけなんて無いんだ。本当ならブドウジュースはもっと高価なはず。

だとしても私はこれからもブドウのジュースではないブドウジュースを、「ブドウジュース」として飲んでいくんだろう。気付いても変わらない事もある。


雨が上がっている。