『ファミレスを享受せよ』ー自由と解放と人間性の砦

※下記では『ファミレスを享受せよ』ゲームのネタバレを含みます。ただしネタバレを甘受して読み進めた場合にはネタバレを含まないかもしれない。

 

ドリンクバーについて俺が語れることは少ない。

文化祭の打ち上げで行ったセブンティーンだとかいった名前のカラオケ屋の薄暗い通路にあった2機のドリンクバーのこと、紛い物の鳥の声が囀る少し暗めのビルの中の漫画喫茶にあった異様に明るいドリンクバーのことは覚えている。

同級生から離れて空のプラスチックコップを持ち薄暗い通路でドリンクバーを探し立ちすくす俺、どれが一番マシかという選択、全て閉ざされたブースを横切りながらところどころ穴の開いた本棚を通り過ぎる俺、ウーロン茶以外でどれが一番マシかという選択……。

俺にとってドリンクバーとは他者との廃絶であり、ドリンクバーとは消去法に揺れる己の虚しさを甘い液体で誤魔化すものだった。

俺にとってはそうだった。

 

そしてファミレスについて語れることはもっと少ない。

 

試験勉強に疲れ、息抜きを求めてムーンパレスに辿り着くところから物語は始まる。深夜にファミレスに行くのか。深夜に?ファミレス?

俺が行ったのは墓場だった。なぜなら夜の墓場には、地面に煙草と酒を広げるような奴らも大声をあげて笑う奴らもいないからだ。静寂だけがそこにある。夜の墓場はコンビニよりは治安が良い、なぜならまともな奴は墓場で集まろうとしないからだ。俺が時間を潰すために過ごしたのは墓場だった。吹き抜ける夜風が枯れ果てた仏花を散らし、闇が読書を阻み、俺は何をするでもなく、僅かな星と定期的に変わる遠くの信号を見ていた。

 

ゲームの中では永遠の時間を揺蕩うファミレスがそこにある。ムーンパレスという。偉大なる王やガラスパンと名乗る女、無為に飽きてTRPGを作ろうとしている男、部屋から出てこない女がいる。ケーキもメニューも無く店員もおらず、そしてドリンクバーがある。俺はマウスを繰ってドリンクバーのジュースを順番に呑む。水から飲む。こういう時でも俺の脳では消去法がちらついている。人生にランダム性を取り入れることができない。すべてを計算してなるべく後悔のない選択をするしかないのだ。ペンギンソーダは最後に飲み、そしてもう一度飲んだ。

 

一通り会話を楽しんだ後は、分かりにくさの極みのような間違い探しをするくらいしかやることがない。俺は仕方なくその、おそらくペラペラとしているであろう冊子に向き合うことにした。可愛さのかけらもない間違い探しにはすぐに飽きて、意味もなくドリンクバーのジュースを飲んだ。意味があってほしいと思ったが、無かったの意味だ。店内のあちらこちらを動き回りながら飲みまわる俺は他の客からしたら実に滑稽だっただろう、本当なら。でもムーンパレスの滞在客たちはどんな行為にも何も思わないだろうなと思わせるすべてで彩られていた。嘘だ、世界は黄色のみで、彩りなど皆無だった。月って本当に黄色いのか?でもとにかく、俺はゲームだからドリンクバーで何杯も飲んでいたわけでもなく、やることがないからドリンクバーに足を運んでいたのだ。周りの目など気にせずに。

 

俺はファミレスを享受していた。

 

間違い探しに勤しみ、飲み放題のドリンクを何杯も飲み、壊れた機械を定期的に触り、話題のなくなった客の間をうろつき、間違いさがしをし、ガラスシロップを飲んだ。

そしてドリンクバーはその身が本来有していた自由と解放を俺に教えてくれた。ドリンクバーとは、好きなドリンクを好きなだけ飲む場所だった。ドリンクバーのシステムを考えるとそうあるべきなのかもしれない、と思っていたが、本当にそうだったと知ったのはムーンパレスでだった。俺が、あの場所で、目の前に自動的に現れるタスク以上に、己の意思で、決定し行動し続けた「好きなドリンクを飲む」という行為。あと飲み放題という自由。無限の無為の時間の中で「選択」という人間性の最後の砦を築くもの、ドリンクバー。

 

ドリンク片手にうろつく俺はやがて物語を進め、真相やら秘密やら虚構やらに触れていく。

ただ、そうして果てに得たものなど、俺にはもう余談にすぎない。

 

エンディングの短い短いスタッフロールを眺めながら俺は、飲み放題を満喫しきったことに達成感を感じていた。真実に辿り着いたことよりも、あの間違い探しをやりおえたことよりも、だ。

 

「ファミレスを享受せよ」とあの女は言っていた。その言葉に、今の俺なら微笑むことが出来るだろう。

治安の良さを象徴するような明るい店内には、老若男女に対応した豊富なメニューとあらゆる客層に適した広いテーブルがある。深夜には必要のないこういった社会的な優しさが存分に溢れ、一方で深夜まで労働に勤しまざるを得ない誰かの犠牲で成り立ち、そしてその誰かを一人でも救うべく作られたドリンクバー。偉大なる王さえも自ら立ち上がり自ら注がねばならないドリンクバーがある。

 

 

そーんなことはないデース!人生は何度でもやり直せるのでした(ズンチャッ♪ズンチャッ♪)

全然ブログを(月記録を)書いていないのは単純に生活の忙しなさに呑まれているだけだ。書こうと思った気持ちだけが残っており、下書きだけで十数件ある。アウトプットの習慣が抜け始めると、言葉の引き出しが錆びつき始めて、言語化はしんどくなる。リハビリがてら普通の日記でも書くか…

 

在宅での仕事が多くなってきたので、ShokzのOPENRUN(骨伝導ワイヤレスイヤホン)を買った。音楽に興味がなくて、ずっと坂本真綾とゲームのサントラくらいしか聞いてなかったのだが、Spotifyも導入して音楽を聞きながら仕事をするようになった。なるべく知らない曲が聞きたくてレコメンドをダラダラ聞いていると、新しく好きになる音楽がある。嬉しいことだ。新しく音楽を好きになることなんてもう無いと思ってた。これから先の自分の人生のおける音楽とは、坂本真綾の新譜で自分の中のKawaiiが遠ざかっていくことを実感し、Bump of Chikenが「ポケットのなかの 乾いて折れそうな 指」とか歌ったときに老いを痛感することになるだけなのだと。

 

そーんなことはないデース!人生は何度でもやり直せるのでした。

 

ゴホウビというバンドを好きになった。男女混声バンドが好きっぽい。なんていうのかな、ゴホウビはSeven Days To Die(ソンビが蔓延る核戦争後の退廃した大地で生存物資を探したり拠点を作りながらサバイバルするゲーム。7日ごとにホードと呼ばれる、ゾンビが群れとなり大量に襲ってくるフェーズがあるのが特徴)に放り込まれても、なんやかんや7日目までは生き抜きそうなバンドなんだな。そうだ。私は生のトウモロコシを齧りながら狂った野犬に襲われて5日目に死んだが、彼らならきっとなんやかんや上手いことやって7日目を生き延びるだろう。でも9日目くらいにはあかんかったかーって感じで死ぬんだろうな。そういうとこが好きだ。

 

一方で嫌いな音楽が流れてくるとめちゃくちゃイライラするということも知った。私は声がクネクネした男性ボーカルが嫌いだ。でもこれは高校生くらいからずっとそうだった気がする。そうだった、そうだった。

 

あとは自分が所属しているDiscordサーバーのいくつかの村の民たちがプレイリストを作ってくれたりしているので、それをダラダラ聞いている。ヒットチャートを聞くのも悪くないが、人格と思想の端をつかんだことがある人間の「好み」を知るのは、その人の影だけがはっきりしていくようで面白い。もう輪郭だけをとらえ続けている関係性でも充分だ。長く生きていると、あなたもわたしも抱えているものが大きくなって、友達を始めるにも人と人の間に違いがあることを知りすぎている。前提を擦り合わせておかないと傷ついてしまうことも知っている。

とてつもない儚さの上に成りたっていることから目を逸らせば、共鳴という関係性は希薄で優しい。

 

//ここで手を止めて、流れ落ちていくような音の中から言葉を拾って感情を取り戻す。冷房をつけていない室内に熱風が流れ込んで、飲み干したサイダーのボトルを倒していく。//

 

穏やかな休みの日の午後が終わっていく。夏はまだ終わりそうにない。

再びプレイリストを繰って、部屋の掃除をするための音楽を探す。

タッタラチャッチャタッタラチャッチャというような音楽が流れ始めている。

前奏の長い曲は良い。やる気はゆっくり出していけばいいんだぞということを体現している。

 

 

 

『NOPE』感想

あらすじがおどろおどろしい感じだったが、ホラー目的の映画じゃないと聞いて観てみた。

画面の中のアイテムの置かれ方とか、意味深な台詞とか、メタファーっぽいものはあるものの全体像や主題との相互作用みたいなものが上手く掴み切れない映画だった。ただ、そういった解釈を全くしなくても、ただの娯楽映画として面白い。それが凄い。見終わって「なんかわかんなかったな~」じゃなく、きちんと物語としてカタルシスのある終わりがあり、その上で意味について無限の考察ができる。良い映画ですね。

 

以下、ネタバレの考察です。

・ちょいちょい絵?カメラアングル?がいい。

・開始15分くらいで出てくる道端のアレ(スカイダンサー)、Eテレ『いないいないばぁ!』うーたんの「だいじょうぶんぶん」の歌のだいじょうぶんぶんだいじょうぶ!の時にバックでクネクネしてるヤツという認識が強かったので、うーたんの気持ちをアゲる以外の用途で…こんな……荒野に!?という謎の気持ちになってた。

・まさか…これが伏線とは…ね!

・飛行物体による急襲の際、大雨の中、OJがそっと車のドアをあけて、こっそり様子を伺い、こりゃダメだな…って感じでまたドアを閉めるシーンが一番良かったです。あそこがこの映画のなんか、意味的なクライマックスな気がしました。直観です。

 

演出とか

・黒人が巨悪に立ち向かう映画を見ると、そういうメタファーかなと思い、そしてそう思う自分の感性が愚かしく思える(なんでもかんでもそういう風に世界を解釈するなよ?)ため、思考に躊躇いが生じる。けど、今回の映画では、エメラルド(妹)が「世界初の映画に出たのは黒人だったのよ!」と意識的に言葉を使っていて、ああそういう目線で見ていいんだって思った。

・ジャンプスケアっぽいシーンはあるものの、「画面に驚かせるモノが出てきてから、俳優が振り返って気づいて驚く」みたいなビックリシーンへの観客へのワンクッションがちゃんとある作りになっていて、その時点でホラー要素への信頼がUPしたので最後まで見ることができた。(私はビビらせホラーが苦手)

・こういう、”見ている”観客のへアプローチが随所にあって、視聴における信頼感みたいなものが育まれるのは面白いなと思った。「見る」というのが一つのテーマなことも拍車をかけている。

 

テーマとか

・ゴーディ(猿)を娯楽消費物として鑑賞することが惨劇を招き、飛行物体は遠くから観察する分には問題ないが、目を合わせることは捕食を意味する。一方で調教師という「適切な距離を設定する」ことを生業とするOJ達は飛行物体との闘いに勝利する。何かを見ること、ひいては何かとの適切な敬意、距離、付き合い方が身の破滅を招かないための生存条件だよ~みたいな話かと思った。

・見ることの対象との距離、「鑑賞する」「観察する」「目を合わせる」が例として出されてる。

・映画考察サイトではよく支配や征服って言葉が使われてて、確かに冒頭引用からはそういう物語だって読むのが正しいかもなんだけども、猿や飛行物体といった自然物を通じてそのテーマを導かせようとするのなんかしっくりこないな~と思った。一方的にこちらを捕食する圧倒的な脅威に対して、「力での支配は惨劇を招く」ってそうじゃなくない?どうにもならねぇデカい脅威やコントロール可能な脅威との、適切な距離の話じゃない?俺が舞城王太郎を読みすぎなのか?

・コントロール可能な脅威、単純に(人々の)怒りです。

 

 

パンに乗っ取られた抒情と手元にある5年目の傘、そして綺麗な部屋の綺麗なままの本たち

学生の頃よりもずっとずっと四季の移り変わりに鈍くなったなと思う。今はもう、私の四季は大福みたいなホイップあんぱんによって認識されている。

2008年にフジパンから発売された「大福みたいなホイップあんぱん」は白いふかふかのパンの中にホイップクリームとあんこが入ってて、洋菓子とパンのちょうど間をふわふわ漂っているような味がする。美味しい。むしゃむしゃという擬音がよく似合うパンなのだ。このパンが季節によっていちごとかさくらとか抹茶とかに姿を変える。スーパーマーケットの菓子パンコーナーで、季節限定の桃色や緑色になった「大福みたいなホイップあんぱん」を見ると「もうそんな季節か」と思う。

毎年何を着ていいか分からない4月とか、暑すぎて殆ど部屋にいる8月とか、服を買おうと思っていると通り過ぎる10月とか、やたらと忙しい1月とか、もう、四季をまともに生身で感じて、地球の公転にその身を委ねる時代は終わってしまっていて、大きなものの流れはパンくらいでしか実感ができない。まずパンで始まり、浅い緑の匂いを思い出し、また次のパンで、ハッと青すぎる空を見上げる。

もうだいぶさくら味を見なくなってしまった。そろそろ春も終わると思う。

 

*****

 

手元の淡い黄色い傘を見て、新しい傘が欲しいなと思った。でもこの傘はまだ使える。全然使えるんだ、ちっとも破れていないし折れてもいない。

眼鏡と傘の買い替え時期がわからない。少し違うな。厳密には、買い換える必要と気持ちの切り替えの周期が全然合わない。

昔、金沢に住んでいたことがあって、あのころは1年に3回くらい傘を買い換えていた。金沢はしょっちゅう雨が降っていて、そしてやたらと風が吹いていて、とても簡単に傘が壊れた。どうせ買ってもすぐ壊れるし、と傘は年々安価なものに下がっていったし、買いなおす手間を憂いたものだが、買い換える必要が殆どなくなるとこれはこれで悲しいものである。服や帽子を買い換えるように、傘を、気持ちを変えたい。でも手元の傘はまだ使えるし、傘って一人で2本も3本も持つものじゃない…と思う。たぶん。本当におしゃれな人は複数持っていたりするんだろうか?

眼鏡にしても時計にしても傘にしても、おしゃれ目的で複数持つほど自分は「おしゃれ」に生活(お金とかスペース)を割いてなくて、そこに価値を見いだせていない。必要がなければ、3年後もこの黄色い傘を差しているだろう。変えるきっかけが外側から来てほしいんだと思う。誰かからプレゼントでもらうのが一番良い気がする。それか、とてつもない大きな嵐が破壊してくれるのを待とう。

 

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本が読めなくなる波がきている。

読書は趣味であると同時に、読み続けることにある種の矜持をもたらすものであった。だから、読めない時期は「本が読めない!どうしよう!好きなはずなのに…」という焦りと情けなさがあり、そして無意味に傷ついていた。でもTwitterを見ていると意外と「本が読めない時期が来てる」人はいるみたいで、リハビリ読書とかいう言葉も流れていく。そっか、それで良いんだ…。(それで良いらしいです!)リハビリに漫画を読む人もいれば、好きなジャンルの本を読む人もいる。私の場合はどうだろう…確実に面白いタイプの読みやすい本を読む、かなぁ。十二国記を読み直してみたりとか、好きな作家の未読の新刊を読むとか。

本が読めなくなる波の向こう側には、たいてい生活の忙しなさがある。脳の中の情報整理という漠然とした部署に、読解と日常タスクとQOL向上の3つを詰め込んでいるので、バランスが崩れると読書が全然出来なくなるか・部屋が汚くなるのである。

今は、部屋が綺麗で本が読めてない。

くるりを聴く春と予定された喪失としての花束、思い出にならない口伝エレベータコマンド

「ばらの花」という歌をきいて、いい歌だなと思い、くるりのベストアルバムを借りて来た。私の春はそうして始まった。春にふさわしい音楽だと思う。運転するときに聞いている。車内の決して音質が良いとは言えないステレオから、街の音とエンジン音にかき消されながら、なんだか春風に融けてしまいそうな歌声が耳まわりを流れていく。脳は通過しないようで、さっきまで何を聞いていたか、今が何曲目か全然分からないが、心地良さはある。春に紛れて。春の心地よさに紛れて。

新しい音楽の発掘、というものをしなくなってしまった。もともと音楽というものにそこまで興味がない(Play musicもしない)というのはあるが、昔のようにネットサーフィンのように知らない曲を聞くこともなくなってしまった。それでも時々、何かのOPやEDやテーマソングは良いなと思って聞いている。たぶん、私の音楽を聞く気持ちよさには感情の想起がある。自分の昔の思い出だったり、アニメや映画やゲームを鑑賞したときの感動を反芻している。だから音楽に物語性を求めているんだと思う。それは音楽鑑賞としてはかなり内向的で、音楽を楽しんでいるというよりは音楽を利用して楽しんでいるといった方が正確だ。別に悪いわけではないけど、新しいものに触れなくなった自分ってあんまり好きではない。でも知らないものをたくさん聞いて自分に合うものを見つける気力と体力が無い。

だから、こうしてまだ聞いたことのないバンドのアルバムを聞くのって久しぶりだった。そして、音楽って、ああそうだ聴き流しても良かったんだったんなと思った。思い出した。どの曲が一番よかったか、そもそも何を歌っている歌なのか朧げにしかまだわかってないんだけど、きっとこれから春には、くるりを聴き始めたことを思い出すだろう。

 

 

花束を貰うのが苦手である。

というか、自分に植物を愛でるという風習がない。もちろん美しいと思うし、貰った瞬間はとても嬉しいのだが、そこから日々状態が下方へ滑落していく、やがて枯れるというのが苦手だ。たぶん「枯れていく過程を楽しむ」ということができないと考えている。枯れていく過程について感じるものではないとはわかっているのだが。そんな、あまりにも近い死をどうしてわざわざ手にしようとするんだ…。

思えば、昔からこの「ここが最高潮であとは終わりに向かって落ちていくだけ」みたいなものが苦手だった。祭りや修学旅行は始まった瞬間に憂鬱になっていた。あんなに楽しかった準備も、楽しみにする気持ちもここがてっぺんで、ここからだんだん喪失に向かって滑っていくだけなんだ。そう思うと寂しくなる。予定された喪失が怖い。

時折、玄関に花を飾る生活をしている人に出会うと感動してしまう。自分には無い感性だ。慈しみが傷付くことを恐れない。私は恐れすぎて生花に対する慈しみを枯らしてしまった。

 

『植物図鑑』という恋愛小説に「好きな人に植物の名前を教えると、その植物を見るたびに名前とともにあなたを思い出す」という話が載っていた。そういうこともあるな、と思う。でもそういうことがないものもある。

え?

あの日、私の横で、二人きりのエレベータの中で、7階を押し間違えた彼女が7階のボタンを素早く二回押して、それから正しい9階を押した。エレベータは7階を通過し、目的地の9階に到着する。そうだ、それでいい。それは十年前に私が教えた。でもきっとそんなこと覚えてないだろう。

私も誰から教えてもらったのか、もう覚えていない。

エレベータコマンドというのがあって、例えば「階を押し間違えた場合に素早くそのボタンを二回押すと選択が解除される」といったものがある。エレベータ内のどこにも書いていない操作方法だ。コマンドはエレベータの製作会社によって違うのかもしれないし、そもそも無い場合もあるのかもしれない。でも、そのどこにも書いていない情報を、私たちはわざわざ調べるわけでもなく、誰かからの口伝で(あるいはインターネット上の噂話で)聞いて、知っている。そして、ある時知らない誰かにも教えている。

都市伝説じゃん。都市伝説である必要はないのに。

伝説というほど虚構もなく、でも情報というほどそこに正確性は求めていない。どこにも書かれていない知恵を、別になくてもいい知恵を、私たちは誰かから教えてもらって誰かに教えていく。そしていつ・誰に教えてもらったかは多分忘れている。

思い出にも伝説にもなれない口伝エレベータコマンドがいまも脈々と継がれていく。

2023年2月のこと

チルアウトというエナドリの真逆ドリンクを買ってみたのだが、飲むタイミングが全然わからない。リラックスしたい時、すでに布団に入ってる。そんな二月だった。チルアウトはまだ冷蔵庫の中で佇んでいる。 

小説

ババウ/ディーノ・ブッツァーティ

表題作たる『ババウ』の良さが突出している。「夢の中に入りこむ夜の巨獣の退治譚」ってあらすじがすべてで、それ以上のことは何もない。でも、この「それ以上のことはない」という物語の描かれる領域の設定が異常に巧い。脇道や世界に存在する情報や常識を一切纏わないソレは、創作の虚構っぽさも、地続きの現実っぽさもなく、「どこかの誰かの脳から出てきた集合体」としてニュートラルな読み心地を与える。読み終えたとき、心はどこに行けばいいのか分からない。そう、でも心を露頭に迷わせておくべき一夜って時々あるのだ。長い人生においてはね…。

人里離れたアルプスの一角にある療養所で行われている驚くべき安楽死法を語る『誰も信じないだろう』、子どもたちが楽しい物語のようにせがむ交通事故の話の数々『交通事故』が印象的だった。

いずれすべては海の中に/サラ・ピンスカー

何よりも表紙が良い。タイトルがさかさまなのも含めて素敵だ。

短編集だが、どれもお話の中にどこかに一つの虚構があるにも関わらず、それがファンタジーに感じられないような浮ついた現実がベースにあるのが特徴。それは、自分の腕がどこかの高速道路の意識と連結しているだったり、架空の建物を設計し続ける夫だったり、いないのにいる子どもだったり。

その読み心地をフシギと味わうか・薄ら寒いと味わうか、というカクテルのようなSF短編集だった。

君のクイズ/小川哲

クイズ大会において問題文が読まれる前、ゼロ文字回答をした対戦者のそのトリックを、図らずしも主人公の人生とクイズを紐解きながら、解き明かしていく物語。図らずしも、という表現なのは、思考にクイズが絡みつくほどのめり込んできた彼の人生は、思い出も知識もクイズとともにあることを再確認させられていくから。(もちろんそれは呪いではない)

小説内で選ばれているTwitterなどの現実の固有名詞のチョイス、キャラクターから想起される読者の感情、構成から得られる読み心地の快・不快、全てが作者によって計算されている。読み終わった後に色んな感情がわいてくるんだけど、考えてみると「そう感じるべく」書かれているな…ってのが分かってくる。そして綿密に組み立てられた完璧な小説は、当然謎解きとも相性が良く、冒頭の引き込みから徐々に解きほぐされていく謎を追ううちにスルスルと読み終わる。そんな感じ。ページを捲る手が止まらなかった。

物凄く面白い小説ではあるんだけど、好きかと言われるとウーンそうでもないな…。

嘘と正典/小川哲

こっちも読んだ。短編集。

物語の造りがもの凄く巧いのは分かる。でもなんというか、私は小川哲の人間とか現実の描きかたがあんまり好きではなくて、それゆえにあんまり読んでて楽しくない(小説がつまらないとは別)だなという感じ。工業的な美しさであって、芸術的な美しさではない。でも美しいものは受け手の趣味を超えて価値が分かるあたりに、小川哲の凄さがあるんだろうなとは思う。

あらゆる薔薇のために/潮谷験

昏睡が続く奇病を治す特効薬が開発されたが、それは副作用として身体の一部に薔薇のような腫瘍を残すこととなった。今、その特効薬の開発者たる医者とその病気の元患者が立て続けに殺される事件が起きて…?という話。

奇病、薔薇の腫瘍、そして事件の核心、とフィクショナルな部分が虚構の域を出ておらず、巻き込まれている大人達の真剣さが少し滑稽に見えてしまった。まぁつい先日、『ループ・オブ・ザ・コード』という大作を読んでしまったので、比較的そのあたりのリアリティラインの作りこみが浅く見えてしまうというのもあるけど…。

ミステリィとしてもそこまでパンチのある展開でもなく、SFとしても怪奇としても微妙な小説になってしまっていると思う。

キドナプキディング/西尾維新

完璧に大団円を迎えた物語の先だ。そんなのどうしたって蛇足でさ、設定の使い回しで、セルフ二番煎じになるやろって思うじゃん。ウソウソ、西尾維新だからそんなことぜーんぜん思わなかったし、戯言続編!つって発売までドキドキムネムネワクワクしてたよ。

そんで読んで、ヒャッホー!これが戯言だァアア!バチクソ面白いジャーン!ありがとーー!もっとこのまま続き書いてェーー!ってなりました。読んでる最中に、高校の頃に夢中で読んだ戯言とその周りに漂う日常の思い出がブワァアと吹き出してきて青春に押し潰されそうになった。でもたぶん、みんなそう。

料理

割合で覚える和の基本

★★★☆☆

最近ちょうど「料理ってもしかして”甘さ”でコントロールされるものなんじゃないか!?」みたいな境地に辿り着いていたのでタイムリーに良い本だった。

覚える、と書いてあるが何をどういう割合でいれるか味付けやレシピを覚える本、というわけではない。和食って基本は醤油と本みりん(みりん風調味料ではない)でええんや、という基礎があり、その基礎論とともにそこから和食の味付けの展開を説明している。

一回読んでおけば、勘で料理をするときのレベルの底上げになる本。

料理上手になる食材のきほん

★★★★☆

上の本を読んで本棚から引っ張り出してきたのがコレ。

これもレシピ本というよりは、肉魚野菜について、旬や味のクセ、下ごしらえの仕方などが書かれている知識本。読み物に近い。

たとえば葉物は水にさらしてからゆでると内部の水分によって熱が通りやすくなり綺麗な緑色になるとか、豚肉はこの温度で硬くなるから、とかそういったちょっとした「綺麗に料理するコツ」みたいなものが載っている。そしてやっぱり旬を知っている方が、料理は楽しい。(特に魚)

ヤミーさんの基本7つのスパイスで世界中の料理ができちゃう!

★★★★☆

チャイを手軽に安く飲みたいなと思い、シナモンとクローブとカルダモンを揃えた。でもチャイのためだけに使い切れないよなぁと思い、スパイス料理を色々見ている。この本は、ちょうどそういう「コレって使い方は一個知ってるけど、それ以外どう使うねん」なメジャースパイスをちゃんと活用できるレシピが載っていて良い。シナモンとレーズンの鶏肉煮込みを作った。かなり美味しかった。

次回予告

・お前…前回の次回予告の殆どが…出来てないやんけ…

・WWシリーズ最新刊が4月に出る(うきうき)

 

 

 

 

2023年1月のこと

初夢で黒崎一護になる。彼の体を持ち私の意識を持ったそれは、ヨソモノというだけで流魂街でいじめられ、それを理由に尸魂界を全く救おうとせず(つまり、救おうとしなかったのは私の意思なのだが)ルキアちゃんを泣かせていた。ごめんな、主人公に向いてなくて。

こうして無限の可能性と偶然による無数のパラレル世界の一つで尸魂界は消滅した。

たぶんだが、その呪いにより、年明けから喉、歯、腰、胃腸、腰とリズムゲームのようにあちこちを順繰り壊していた。もう一度遊べるドンではない。「体調悪いよォ」と嘆いていたら1月が終わっていた。なんなら2月中旬も終わりつつある。やってくれるぜ尸魂界…。

小説

ループ・オブ・ザ・コード/荻堂顕

読書会課題本。読んでる最中に「面白ぇ!」となり、皆の感想を聞きたくなって課題本に指定した。読書会を主催するとこのような利点があります。

 

著者自身が明言しているとおりのポスト・伊藤計劃、令和の『虐殺器官』。

国際社会から一切の過去を抹消されたイノグラビムスという国家において、子どもたちに原因不明の発作が多発する。疫病禍を経て組み替えられた国際機関、WEO(世界生存機関)に所属するアルフォンソはその調査に乗り出すが、そこには想像を超えたxxxを孕んでおり…?というストーリー。消えゆく民族のアイデンティティ、男同性カップルにおける代理母出産、家族、反出生主義、と様々な社会問題を誠実にフィクションに落とし込めながら、物語は映画さながらの緊張感とCOOLな台詞回しでテンポよく進む。重いテーマをいくつも扱っていながら、小説は非常に読みやすい。

 

とにかく主人公の、人生で煮詰まれてきた感情の描写が白眉である。

「こう感じた/考えた」という主観が人間一人一人違うのは、そこに至るまでの心の過程が異なるからだ。事象とは別に、目の前の他者との関係性による打算・過去のしがらみによる虚栄…があるからこそ、主観は独自性を保つ。そういった複雑さをきちんと描き、そのままアルフォンソという一人の人間の「一人称小説」として見事に描いている。

確かな手腕による力作である。

 

ただ、自分もそうだったが、この本の単純な感想と、自分が現実の人生経験によって獲得した信念だとか思想との境界を引くのが難しい。読書会では、みんなに踏み込みすぎずにそれらを語り合うというのは難しく、進行役としてはかなりやり辛かった。まぁ感想が聞けたのは非常に良かったが…。

『ループ・オブ・ザ・コード』―感想メモ - 千年先の我が庭を見よ

作者Twitter曰く、続編の執筆が予定されているそう。楽しみだ。

最愛の子ども/松浦理英子

とっても良かった。個別記事を書いたのでそちらを読まれたし。

群れによる語りと鮮やかな日々『最愛の子ども』 - 千年先の我が庭を見よ

インヴェンション・オブ・サウンドチャック・パラニューク

とにかく分かったことは、パラニュークという作家の咆哮は私に向けて叫ばれているものではないということだ。

細々とした生活のための雑事に埋もれ、バランスの良い自炊を行い、晴れた日には洗濯をし、薬に頼らずに精神の安定を図るという(パラニューク的に)健康な生活を過ごしている者にとって、この文体の動乱はただただ喧しいだけだ。目眩がし、不快な動悸がする。過剰なカフェインに酔うかのようである。

 

至高の悲鳴製作に傾倒する音響効果技師たるミッツィと自ら「自分は次の瞬間に炸裂しかねない爆弾だと思っている」フォスターを中心に回る物語は、それそのものが爆弾のようである。不快な緊張感、全てに向けられた敵愾心、そういったものが文字を通してずっと伝わってくる。(やめてくれ!)そう、いうなれば――音域を超えた悲鳴をずっと聞いているみたいだ。

私の生活には必要のない悲鳴だ。

小説以外

ひどい民話を語る会/京極夏彦,多田克己,他

ホントまぁ〜下ネタばっかりだが非常に面白かった。

荒唐無稽・下品さで学問や文芸からは弾かれ、零れ落ちた口承文芸を、「ひどい民話」として妖怪愛好家の面々でさぁ語り合おうじゃないか、という談話集。

民話というのは、ゲームもTVもない時代のエンタメの一つとして「面白いお話して!」とせがまれて出来上がるものであり、とにかくウケ狙い、ウケればOKという方向へ進化していく。そしてめっちゃウケた話が生き残っていく。

これほど常軌を逸した内容になってくると、僕は整合性をもって理解することができなかったです(京極夏彦

それゆえに、あの京極氏がこう述べるほど、奇天烈な民話の数々が繰り広げられる。ウオォオ四天王による奇天烈民話カードバトルだ!キェエイッ!

お風呂を沢庵で搔き回す民話を、取り憑かれたようにに三日間くらい調べていたんです。あまりに多いので途中からもういいやってなっちゃいました。(黒史郎

ウンコを食わされただけのババア、テケテケワンワン走ってきて裏返ってまた去っていく犬(裏返って?)、豆粉餅を布団の間に置いて寝れば屁で豆粉が舞う話…。

子どもの寝かしつけにオリジナル桃太郎の話をしたことがある人は、かなり楽しめるだろう。ビクトリーソードを持ち、カビパラを従え、メロンパンを腰につけた桃太郎。あなたのそれも、脈々となされてきた民話の一つの形なのだ。

みんなが手話で話した島/ノーラエレン・グロース

みんなが手話で話した島の話である。

アメリカ・ボストンの南にある島では、先天性聴覚障害を持って生まれる人が多く、その比率も高かった。そのような島では、聴覚の異/正常を問わず、発話と手話が「当たり前」として共生社会が作られていた…というフィールドワークのレポートである。

だから、どのように情報収集したかという聞き取りや歴史・系譜の解明などの「調査結果」が8割であり、内容としては、帯文にある

「あの人たちにハンディキャップなんてなかったですよ。ただ聾(ろう)というだけでした」

という一言がこの本のすべてである。なので、この一文を読んで、本を3割くらい読んだところで、これ以上この本が言うことないな…と消化試合みたいな気持ちになってしまった。

「障害」「言語」そして「共生社会」とは何かについて深く考えさせる、文化人類学者によるフィールドワークの金字塔。

というあらすじ紹介にあるとおり、”考えさせられる”ための根拠に基づく整理された膨大な情報がある本。

料理

このレシピ本良かったな〜という情報、あんまり友人間でも共有されないけども必要じゃない?

海上保安庁のおいしい船飯

★★☆☆☆

海上保安庁の船でのレシピ本。かの有名なカレーに留まらず、各地のご当地グルメレシピもある。ついでに「船が揺れて皆のご飯が危機一髪!」みたいな船キッチンあるあるも載っていて見知らぬ世界の食事が垣間見える。鶏飯だけ作った。

ずるいおやつ

★★★★☆

手軽に作れるお菓子作りにはまっているので、これを見てマフィンとかレモンのファーブルトンケーキなどを焼いた。ホットケーキミックスを中心として、材料数も手順も少ないところが良い。作ろうかな、という気持ちから行動までの障壁がだいぶ低い。そういうの大事だよ。味はまぁ…自分用ならこれでエエか〜といった感じ。

映画

TENET
TENET テネット(字幕版)

TENET テネット(字幕版)

  • ジョン・デイビッド・ワシントン
Amazon

ぜーんぜん分からんかった。

SF的要素たる「因果が逆転する(弾が到着したあとに、銃を撃つという現象が発生する)」というのは発想としては面白いものの、映像では物凄く分かりにくい。映像的にはただの逆回しなので地味すぎる。冒頭のシーンで、それっぽい匂わせに主人公が疑問を持つシーンがあるんだけど、何に疑問を持っているのか全然分からなかった。アニメーションでやればもうちょっと違ったのでは…。

あと私は登場人物の見分けが全然出来ず、誰なのかモブなのかどうかも分からなくなるという弱点がある。今回も、主人公はこの二人!とパッケージの二人とあと悪役、ヒロインの4人だけ頑張って把握していたら、エンディングで「…じゃあな」ってかっこよく去る男が3人になっててコイツ~!?誰~~!?となった。となった、じゃない。絶望的に映画鑑賞に向いてない。

全体としてストーリィは分からんでもないけど、映像が何やってんだか分からんし、スリルも楽しくない。さらに最初から最後まで、話の流れがガタガタしてて咀嚼しにくい映画だった。

次回予告

・小川哲『君のパズル』、読書会課題本。

・カルタレスク『ノルタルジア』積んどる。

・好きな菓子パンインフォメーションの記事でも書くか…春のパン祭りもくることだし

・ペルソナ5ロイヤルが終わりそう