群れによる語りと鮮やかな日々『最愛の子ども』

あなたにもあるでしょう?

「俺たちって変だよな」「あたしたちって何やってんだろうね」と悦に浸りながら、自分と”仲間うち”の中でゆるゆると自他の境界線を溶かし、一方で”他の群れ”との境界線を鮮明に引いていたこと。

そして、その薄くて柔らかく心地よい無自覚な皮膜を、

今になって、

(寂しく)思い出したことが…。

 

「主な登場人物」という章題で始まる私立玉藻学園高等部2年4組の放課後である。

女子高生らしさ、という課題に些か挑戦的な作文を提出し、職員室に呼び出された真汐。級友たちは、彼女のそういった性癖に苦笑とも憫笑ともつかない曖昧な笑いの混じった溜息を捧げ、それぞれがお喋りを始める。恵文、美織、由梨乃、希和子…闖入者たる(名も無き)男子たち…そして日夏と空穂。

 

本書の特徴は「わたしたち」というその語り手は存在するものの「わたし」は存在しないことにある。

わたしたちはわたしたちは、で語られる夕暮れの教室の彼女たちの行動・思考・戯れの数々。だが、そこに”わたし”という存在はない。「わたしたち」という滑らかで薄く、しかし確固として存在する、私立玉藻学園高等部2年4組の”群れ”。

ここで「わたしたち」という主語が使われていることに関しても、自分は「わたしたち」の中に入れてほしくない、安易に「わたしたち」なんて言うな、と不満を抱く者もいないとは限らないのだが、そんな不安につきまとわれながらも、わたしたちは小さな世界に閉じ込められて粘つく培養液で絡めあわされたまだ何物でもない生き物の集合体を語るために「わたしたち」という主語を選んでいる。

文中に「わたし」の主語で語られる文章は存在するものの、それらは他の登場人物たちの想像の範疇であることが強調して描かれる。読者は、存在しない私立玉藻学園高等部2年4組の一人になるわけではなく、彼女たちひとりひとりの裡に存在する”わたしたち”の意識が発する語りを、聞いているだけなのだ。

 

ありきたりな日常が流れている。

中睦まじい真汐と日夏と空穂の3人は、みんなからは「わたしたちのファミリー」と呼ばれていて、彼女たち自身もその呼称を甘んじて受け入れている。同級生たちは「わたしたちのファミリー」の観測をを一つの娯楽としているし、愛してもいる。もちろん彼女たちだって「ファミリー」たらんとして振舞っているし、お互いを愛している。

 

蛇口をひねるような愛に溢れている場所。

そこでは、他人への感情が個性である。寄せ/寄せられる好意と、他人の個性に傾倒していく自我があり、葛藤と抑圧と嫌悪があり、踏み込めない孤独がある。

周囲との好意的な関係性の中でも、どこかで自分の立ち位置を認識し、キャラクターを演じている。演じる中で役割があることに安堵するし、キャラクターゆえの周囲からの赦しもあるし、予定調和という平和もある。

「主な登場人物」と自らたちを振り分け、舞台上に立つ連帯感に酔いしれる彼女たち。

それは、優しく滑稽な幼いままごとである一方で、忍び寄る社会性への冷酷な予行練習でもあるのだ。

でもそんなことも、彼女たち、否…“わたしたち”は分かっている。

刹那的な日常の先に、人生だの将来だの、周りには他人だの常識だのがあることもきちんと分かっている。

それらと上手くやれないことだってたくさんあるということも。

「日夏は踊れるもんね」
「でも自己流だから」
すると真汐が言った。
「自己流でいてほしいな。既成のステップなんて憶えないで」
日夏は真汐にだけ向ける例の優しい目をして応えた。
「憶えられないよ、きっと。わたしも器用じゃないから。」

そして何よりも(その時代を過ぎ去った者にとってはあまりにも明白なことだが)

そこにいるすべてが楽しいということに気付かないまま鮮やかな日々を送っている。