vergangenheitsbewaltigung

小説を書きたい、と思っていた時期がある(今もかもしれない)

ポエジーなフィクションを書くことそのものは好きで、景色や音楽に感化されて時々散文を書いたこともある。自分の目に映らない景色を文字で映し出して、そうして自分が好きな昔の自分の文章がいくつかある。そうだね。

そのまま小説が書きたいなと思う。

というか自分が読んでみたいと思う物語を空想することくらいはあって、それを実際に文字や言葉にしてみようと思ったことはある。でも駄目なのだ、

人間を登場させたところで駄目になる。

自分の生み出した人間に吐き気がする。

キャラクターが出てくる。会話をする。動く。考える。そこに矜持、憧憬、嫉妬、正義を内包する仕草が、言葉が纏わりつきはじめたころ、どうにも厭になってくる。書いて、気持ち悪くなって消してしまう。段々書くことすら出来なくなってくる。

オエー

 

これは二次創作でも同じで、すでに完成しきった物語のキャラクターを勝手に動かしてストーリーの二次創作をすることにも物凄く抵抗がある。別に原理主義者というわけでもないんだけど…。東方とかLOLとかキャラクターありきで物語に隙が多いものは、自分もたくさん描いたことがあるし、読んでいていも楽しい。でもリリカルなのはとかジャンプ漫画とか、もうすでにそこで物語が閉じているところでキャラクターのifをされるのが本当にダメだ。ダメというのは批判ではなくて、自分の感受性がダメなのだ。死んでしまい、面白さが全く理解できない。

自分がそれを作り出せない、その姿が想像ができない、という悲しみが、虚しさとなって全てを覆いつくしてしまうのだろう。

 

たぶん、人間的であるということに恥みたいなものを感じているからなのかもしれない。

感情に振り回されず合理的で温和な人間が完成形、みたいなイメージを持っていて、常に自分はそこに至れない愚かな人間だという恥がある。泥人形に感情を乗せるには、そういった自分と、手持ちの感情と向き合う必要があって、そこにただ耐えられないだけなんだろうな。この思考もだいぶヤバいなと思うけども、なんかちょっと人格形成に失敗しているのでどうしたもんかなと思っている。(まぁ人格形成に成功していると思っている人間もヤバいが)(人格形成について失敗も成功も意識していない人間が正解)(人間に正解はないって言ったでしょ!)

 

え~どうしよ~という感じではあるが、創作そのものはどうにかしてやっていきたいのでうんうん唸っている。やっぱり”物語を作れる人”というものには強い憧れがある。

とりあえずストーリーテリングの本なども読み始めたので、目下は寝物語でも紡いでやるかいと考えている。いつか恐ろしい物の怪に囚われたときに、少なくとも謎掛けや御伽噺で窮地を脱することができるようには、ね。