スリーフレーズ、フリーフレーム

今まで読んできた本の中でもずっと忘れられないフレーズというのが3つある。思考の空隙に泡のように浮き上がってきて、そしていつもその言葉の意味を考え続けてきた。

 

「混沌とした話をしているね。もっと抽象的に言いなさい」

「ようするに、つながっているのに、つながらない」

朽ちる散る落ちる森博嗣

高校生の頃に読んで、この言葉の意味が分からなかったけども、それ以降ずっと何かを理解する時にはこのフレーズを思い出していた。組織で仕事をするようになって、専門外に触れたり、上なり下なりに説明やら教育やらをして、電子的にも運営的にも「システム」というものの根幹に関わる仕事が増えてきた時に、やっと「あ、これか」と理解できた。抽象的思考。あらゆる物事について、抽象的に思考できるかどうかというのは理解速度にかなり違いが出ると思う。

昔は「抽象の方が理解しやすいとはどういうことだろう」と疑問だったが、慣れてくると、というか理解(読解に近い)の回路ができ始めると基本的に抽象的に捉えた方が分かりやすいという意味が身に染みてくる。言葉で意味を限定しすぎない方が理解しやすい事象やら思想は多い。これが、このフレーズの意味が分かるようになって良かったなと本当に嬉しく思う。

ここ数年ではこの脳内回路には「プログラミング的思考」という名前がついて、汎化という一手に属するものとして多分そのノウハウみたいなものが形を取り始めたなと思う。素晴らしいことだ。

「愛は祈りだ、僕は祈る」

好き好き大好き超愛してる舞城王太郎

言葉通りで言葉通りに納得することは容易なんだけど、実感として得たことがあって「これか」と身震いをした。感覚を言語化しようとしたら、記憶の中に既にそのページがあった、みたいな感じ。

数多にある人生の儀式がそうであるように、そしてそれしかなかったように、祈りもまた愛である。

このフレーズを理解できた時に、生きてきた甲斐があったな、と思った。そしてそういう物語だ。

「そうかしら。でも、無意味が無意味でなくなる瞬間、その時にこそあたしたちは生きるのじゃなって。あたしは零がきらいよ、もしも幸福がプラスで、不幸がマイナスだとしても、あたしは絶対値の大きい方を選ぶわ」

エピクロスの肋骨』澁澤龍彦

これだけが未だに実感を伴う理解を得るに至っていない。

何となく言っている意味は分かるし、解釈することは可能なのだが、そういうことではない。人生で、この言葉を発するに至る境地に未だ達していないなと思う。不幸である場合に、その絶対値が大きい方を選ぶという精神状態がよく分からない。でも何となくこれも生きる上での根幹にある思想の一つだとは思う。それが自分の生き方に馴染むものかどうかは別として。