気付けば(略)
小説編を書ききったので、ノンフィクション&ゲーム編も頑張って書ききった。偉いな~!
ノンフィクション
黒魔術がひそむ国 ミャンマー政治の舞台裏/春日孝之
「サッカーの試合で相手国のゴールキーパーに呪術をかけた」なんてゴシップネタを聞いたことがある。私たちはそれを一笑に付してしまうが、それは私たちのイメージする”科学的に未発達な社会の藁にも縋る手段”なのだろうか?
本書は、その精神性を通じてそこに根付く文化を読み解き、政治、その国を理解していこうというルポタージュである。その国とは、ミャンマーだ。
切欠は著者が「大統領の誕生日が公式に公開されておらず、複数説がある」という状況に「それは敵対陣営からの生年月日による呪術を防ぐためである」という噂を聞いたところから始まる。ミャンマーは上座部仏教(仏陀の教えを厳格に守り、個人の悟りを追求する)が基本だが、これに現地信仰の精霊・超能力信仰、数秘術や手相・呪術が混じりあい、実態はもっと複雑だ。それらは大なり小なり「占い」に通じ、日常生活から政治にまで....私たちの「マナー」「道徳」のように自然に浸透している。
そういった背景を前提としながら、アウンサン・スー・チー氏やテインセイン大統領などへ直接、政治判断への影響力や呪術の実態をインタビュー、一方で市井の人々...街中の占星術師や一般市民へもインタビューし、彼らに潜む”常識”を明らかにしていく。
「ミャンマーは黒魔術がひそむ国なのか?」...各章の結論にはやや牽強付会があるような気もするが、そもそもこれは結論に至る過程を読む本である。
そこでは宗教や信仰心の一言では片づけられない、歴史と倫理道徳の全てを内包した「生活する人々」の集合体としての国家が見えてくる。
能はこんなに面白い!
能。伝統芸能は嗜んでみたいと思うが、楽しみ方が分からない。ハウツー本は大抵、能の歴史や役割や勘所の説明ばかりで、これで面白いと思えるのものなのか?と不安になるだけだ。なんだってそうだ。見所の解説よりも、実際に友人が「ココが良いんだよ!」と熱く語ってくれた方が分かりやすい。
それがこの本だ。玄人の二人――観世清和(観阿弥を流祖とする観世流能楽師)と内田樹(内田樹の研究室自身も能楽を演ずる)が「ここが面白いよね」「ボクはこういう解釈で見てます」と雑談形式で、時には舞台裏やその背景を織り交ぜつつ――能の魅力を語り合う。能というものを、ただの演劇ではなくさせる知識と視点がそこにある。
「興味はあるけれど、どこから切り崩せば良いか分からない」という導入に最適の一冊だ。
図説 天皇家のしきたり案内: 知られざる宮中行事と伝統文化が一目でわかる
成人の儀や大嘗祭から国賓来日時のディナーや舞楽まで、宮中行事や儀礼、伝統文化について紹介した本。
大嘗祭の時の神饌の米・粟の育成には亀卜で縁起のいい方向の斎田が選定されるとか、宮号の命名規則や由来なんかは本当に異世界のしきたりの話で非常に面白かった。舞楽という芸能の存在も(多分見たことはあったけど)名前やどういう芸能なのかは初めて知った。勲章についても、どういう種類のものがあってどういう人が貰えるのかはきちんと知らなかったので、勉強になった。こういう日常でなんとなく流しているけど、聞かれたら答えられない情報をきちんと仕込むと身が引き締まる。
世界の機内食
これは世界の飛行機での機内食について書かれた本。写真もいっぱいある。
こういう、全然自分の生活と関係のない本を読むのって楽しいよね。
1980年代は「機内食といえば不味いもの」だったが、今では有名シェフ監修や専用ソムリエ搭乗など各社が工夫を凝らして美味しいものにしている。ただ、機内食は安全上、作ってから一度必ず冷凍保存され、上空で再度熱通しをするので、単純なレストランとはまた違った工夫が求められる。更に上空という低気圧下では人間の味覚も異なってくる。
写真付きの航空会社各国のメニューを見ているだけでも面白いが、各社のこういった課題への取り組みに関するインタビューもあり、読み物としても楽しめる。知識があるとそれまでの見ていた景色に情報レイヤが加算され、脳が処理する世界は豊かになっていく。
ゲーム
ウーユリーフの処方箋
Appゲーム。乙女ゲームかなと思っていたら、非常にメタ構成の謎解きゲームだった。自虐とも思えるようなメタを入れつつ、ストーリィは徐々に高次元へと進んでいく。謎解きそのものはシンプルだが、キャラクタの魅力と大筋が語るテーマは当初の予想を裏切り、惹きつけられるものがあった。
無料だが、毎日定刻にチケットが数枚配布され、ゲーム進行にはチケット消費が必要である(つまり自分の速度でゲームを進めたいならチケット購入の課金が必要となる)課金要素はこの進行スピードのみなので、ゲーム自体のクオリティは無料とは思えない出来である。オススメ。
ニルアドミラリの天秤
メロメロ富士山、登ったことある?登ってその景色を見たことある?アタシは......あるよ。
kiloannum-garden.hatenablog.com
アムネシア
ニルアドミラリですっかり気分を良くして、次なる乙女ゲームに取り掛かった。よく耳にしていたので(そしてもはやPSPの中古ゲームは200円くらいで買えるので)こちらを選択。
しかし、序盤の...1人目の攻略を初めて1時間ほどで投げ出してしまった。見ててあまりにもイタイ。
まず大学の数学科院生という設定の彼氏がハチャメチャにベルトのついた服をきているのが悲しくなってくる。なんだそのセンスは。更に恋人同士の散歩を「横に並んでただ歩いているだけに何の意味があるのか理解できない、無意味だ、俺はやらない」とか言うのもつらい。そういう杓子定規で非効率な行動を理解できないのを「理系っぽさ」だと思っている作品が、人間というものを安易に捉えすぎてて私は嫌いです。せめて「理解できないことを悩みながら合わせている」くらいの深みが欲しい。
Persona3 Portable
ゲームって楽しいな!という気持ちから再プレイ。
これはPersona3のPSP版で、本来は男主人公だけなのだが、PSP版になった時にオリジナルの男主人公版に加え、女主人公版でも楽しめるようになった。 数年前に男主人公LV100でクリア済みだったが、久々にやってみたくなって折角ならと女主人公でもやってみた。正直、シナリオはほぼ同じなのでそれほど期待していなかったのが、予想を遥かに裏切る面白さがあった。
Personaはいわゆるダンジョン攻略的なRPGモードと学園生活というシミュレーションモードが表裏一体となり、お互いに影響力を持つというシステムが一番の魅力だ。日常生活での友人との関係性の深度はそのままRPG戦闘における強さに影響する。この「日常生活での友人との関係性」が、男女でこうも違って見えるのかという所が大きな発見だった。
男女で交友関係が多少変わるのだが、ストーリィのメインメンバー(戦闘メンバー)と交友するのは変わらない。そうすると、男主人公では親友だった順平君が、女性主人公では「友達以上恋人未満」の距離感に変わっていく。もちろん態度も変わる、こちらにかける言葉も変わる。逆に女性同士なら恋人ではなく親友になる。「君だから話せるんだよ」と言われた時、自分が男性である・女性であるときで自分が読み解くその言葉に含まれる感情、自分が期待する関係性、自分の想いが変化する。このプレイヤー側における意識の変化は「関係性の構築が主人公の力になる」というPersonaシステムにおいて非常に核心的(革新的)だと思う。
残念ながらこの男女主人公システムはP3Pのみで、のちのP4、P5では続編も含めて採用されていない。しかしながら、この”違い”が齎す世界の見え方の相違こそが”Persona”であると思う。Prsona6ではぜひ採用して頂きたい。ATLAS殿、よろしくお願いいたします。
Persona5
P3Pが楽しかったので、熟慮の末に買ってしまった。プレイ時間が確保できるかどうか心配だったが、昨今の世の流れ、テレワークの敷衍により「昼ごはんを納豆ご飯にすると毎日54分プレイ時間が確保できる」状態となった。少しずつ進めています。今はねーカネシロ・パレスに侵入中だよ。
RPGという骨をどれだけ物語の肉の中に隠せるか、というのが没入感における全てだが、その点においてPersona5は至高の位置に立つ。プレイではなく体験が作られていく。私は今、学園生活と怪盗生活の二足の草鞋を履いている。日常の全ては誰かとの、そして私の影の活動における強化に繋がるように思えてくる。会話には選択肢がある。楽しい、最高に楽しい!!
ゲームにおける没入感については下記記事でも触れている。読まれたし。
kiloannum-garden.hatenablog.com