『白銀の墟 玄の月』後編(3、4巻) 感想

...読み終わった!? 

白銀の墟 玄の月 第三巻 十二国記 (新潮文庫)

白銀の墟 玄の月 第三巻 十二国記 (新潮文庫)

 
白銀の墟 玄の月 第四巻 十二国記 (新潮文庫)

白銀の墟 玄の月 第四巻 十二国記 (新潮文庫)

 

 11月9日に『白銀の墟 玄の月』後編となる第三巻、四巻が刊行された。もちろん開店と同時に本屋へ走り二日で読み終えた。私はじっくり楽しみたいというよりも、兎に角物語の落ち着くところまで一気に駆け上がりたいタイプで(続きが気になって寝食できないタイプ)一度読み終わってから、任意の箇所を石飛びのようにパラパラ捲りながらゆっくりと味わう。

 

十二国記『白銀の墟 玄の月』前編(1,2巻)考察メモ - 千年先の我が庭を見よ

前回、色々と考察したりしてみたけど、当然読み取れる部分以外はだいたいハズレたね。うはは、でも何ていうかハズレた方が嬉しいってところもある。自分が想像するよりもやはりずっと面白いんだもの。

 

①無気力の病について

妖魔の仕業でしたね。妖魔か~妖魔とはな~!

その習性を利用すること出来るがやはりそれは諸刃の刃である、というのはいかにも十二国記らしい設定で良いなと思った。生き物に完全な善悪があるわけではなくて、きちんと理解して付き合えば上手く利用することが出来る、だがしかしそう上手くはいかない...というあたり。これは騎獣についてもそうで、今まで色々な「乗れる獣」が登場してきたけれど、それはファンタジーで言うところのペガサスとか竜騎士の竜みたいな「絶対に人間に懐いている善性の生き物」みたいなアイテムでしたが、ここにきて「捕らえる」という描写が出たことで一気に生物としての物語が添加されたと思う。この描写によって生物というものが、この十二国記世界で習性を元に生きる生命体であって、人間はその習性を利用し..利用できなければ弱肉強食の理に堕ちる存在という確固たる肉がついた。そしてやはりその理を超えて、「使役」できる麒麟はやはり奇跡の存在なんだね。

ただ、一点意外だったのは「魂魄」という概念があること。「魂魄を抜かれる」というのは医療知識の未成熟な時代ならではの言い回しなのかもしれないけれど(癲癇が狐憑きと言われていた様な)、魂魄って存在や概念が十二国記世界の住民にあるのは全然想定していなかった。ここがかなりモヤっとした。それは、私はこの世界を多分ナルニアや中つ国のようなファンタジー世界というよりは「別の理がある現実から地続きの別世界」くらいの認識でいたからだと思う。いきなり魂魄という超越的なワードが出てきて戸惑っている。(逆説的に私はこの現実世界で魂魄というものを信じていないんだな....。)今回、道観だの巡礼だのと十二国記での「宗教観」という新たな境地を描いてくれた小野先生、短編での死生観や生命倫理観のお話もお待ちしております。

 

阿選の人格

結局のところ、動機は一言では言い難いが「周囲や自身への失望が驍宗への憎しみへと転化した」というところだろうか。(そう、断じて嫉妬ではないのだ)1,2巻で阿選を慕う者達の彼の人格や手腕の素晴らしさを聞き、「阿選だって悪人ではないのでは?」と思わせる小野先生の手腕は見事としか言いようが無い。それはただのミスリーディングへの伏線ではなく、人間とはそういうもの、という描写なのだ。阿選と驍宗、それぞれ麾下に慕う者がおり、在り方に疑念を抱く者がおり、明確な善人・悪人ではない。しかし、その人間の全ては見えぬもの。今回描かれた阿選の淀んだ感情と、対照的に描かれた地下での驍宗の清廉さ。そういう露骨な善悪が、はっきりと人の目に触れられる場所ではないところで描かれているのも意図的だろうと思う。人間は非常に複雑な生き物であり、思想や性格だけでなく、結局のところ「行動」によって(人の定めた)善悪に移ろう生き物なのだ。

 

 

琅燦の立ち居地

「彼女は敵ではない」と泰麒が言っていた。おそらく玄管の差出人も彼女で間違いないだろう。前回の前編考察で“ただ、蒿里が阿選と対面したときに「王かどうか確かめるなら斬ってみればいい」というのは少しおかしいと思った。もっと簡単な方法があるはず、そう真に王ならば叩頭してみせればいいだけの話なのだ。”と書いた。最終盤で泰麒も同じように分析している。これによって我々は、図らずしも耶利の

あれは並の人物ではない。ならば巌趙が不安に思う程度のことなら、とうに答えを出しているはずだ。巌趙ごときが心配する必要はない。

を身を以って知ることになった。...最高だよね!これこそ物語の中に入り込んで、王と麒麟を崇め無事を祈り戴国の払暁を信じてきた我々読者という名の「民」 の実感だよ。

 

一方、彼女の内情の把握には阿選ですら掴みかねていた。

「驍宗様を尊敬してはいる。」「(謎の人物:耶利の主が語っていた)民の安寧を願い、その頂点に驍宗様に君臨していて欲しい」という思想は、長らく数多の技官という名の民を纏め、培われていく技術や知識を見て来た彼女の、一人の戴国に仕える官吏としての本心だと思う。それでも謀反の教唆に至った理由は、作中でも語っていた通り「でも天の理への好奇心はそれに勝る」に尽きるということなのだろう。ただし、この「唆す」という点は阿選の主観(回想)での断言であり、個人的には「阿選が望めば望むだけ謀反に有利な知識や道具を与えた」というかなり受動的な教唆・共犯だったと思う。ある程度の煽動はあっただろうけれど、阿選が実際に起こすかどうかというのも彼女の賭けの一つだったのではないだろうか。そして、前述の思想をもとに泰麒や民を陰ながら支援していたのも、彼女なりの思想の筋の通し方、そして一つの賭けだったんだと思う。何故なら天にとっては「そういう官吏を驍宗が重用し、戴国を運営している」という事実も盤上の要素の一つだからである。

 

④戴国end

王道の結末で大満足である。

泰麒が叩頭し、「...主上」と言った。そして

もちろん、の王は驍宗でしかあり得ない。

の一文だ。

これを読んだ時に震えた。3、4巻が出るまでの一ヶ月、戴国はどうなるんだろうと考えてばかりいた。阿選践祚を嘘だと思っていたし、驍宗の無事を信じてはいた。それでも心のどこかでもしかしてもう...驍宗は死んでしまっているのではないか、麒麟の力を失った泰麒に出来ることには限界があるのではないかと不安に思っていた。それは李斎のように、項梁のように、困窮と恐怖に耐える名も無き無数の戴国民のように...だ。この一言だ、この一言が欲しくてずっと読んできた。物語の中では6年、現実では18年という年月を我々は読者という名の「民」としてずっと待っていたんだ!

よくぞご無事で...お戻り下さいました...!

 

その後、小説では泰麒は未だ病床の身だし、驍宗も王座奪還に向けて動き出したところまでしか描かれていない。これがディズニーアニメであれば、泰麒と驍宗が再会に涙し、側近達がお互いに肩を叩き、復興を目前に喜ぶ国民達の祝宴で終わるはずだ。

でも歴史はそうではない。

これは世界の時間のある一部を切り取って物語とした「史実の一部」なのだ。だから、民にとっては「国が良くなっていく希望はあるが、これからまだ血生臭い戦が起こる」という視点でしかない。そしてその後とは、巻末の漢文にたった一文、阿選を討ち国土平定に至ったとの旨があるのみだ。それどころか、今まで我々が民とともにしてきた不安・希望・祈り・苦難はその文字列にはなく、ただ完結に数十文字...紙切れ一枚に事実のみが纏められている。でも後に記される「史実」とはそういうものだし、歴史ではなく純然たる過去としての重みや厚みも、本当はそういうことなのだ。書物の中では数行で終わってしまう世の繁栄と衰退を、我々はずっと読んで....否、見てきたのだ。

読者を一人の「民」として共にその歴史の片鱗を歩ませてくれる、それがこの十二国記という小説だ。これは読書ではない、我々が追っているのは文字ではなく時間なのだ。

この世界を共に生きていけたことを何よりの幸福に思う。