お前が世界を覗いたとしても、世界はお前を覗いたりはしない

配偶者の法事に行ってきた。
配偶者の三人称に自分が良いと思うものがない、性別を問わないパートナーの呼称がない。
言語を作るなら今やで、このままやとパートナーとかになってしまうで。

本題に入ろう。
はっきり言って異文化コミュニケーションであった。
そもそも自分はあまり一般的ではない(負の意味で)家庭環境であったので、家族とか一族という繋がり意識が希薄ではあるのだが。
宗教も違うし、家庭環境も違うし、ああ他人の家というのは完全に異文化の地なんだなと強く思った。
たぶん「目玉焼きにマヨネーズかけないの〜〜!?エッうちだけ!?うそぉ醤油かけるの!?」みたいな衝撃はだいたい二十歳くらいで皆さん体験済みであろう。
それを上回る衝撃、衝撃というか「そうか、こんなに違うのか」という果てしない距離の実感である。

もともと小中高とあまり友人の家に遊びに行く・泊まりにいくというイベントがなかったため、他人の実家というもの自体に触れる機会が無かった。
本を沢山呼んでおいて良かったと思う。
こんなに違う世界が様々にあるということを大人になってから知っていては、カルチャーショックが激しすぎる。
あとそのショックを受け入れられるだけの価値観の余裕も無かったかもしれない。

信じている常識なんて高々数十年の狭い範囲で植えつけられたものなのだ、
というのは文化人類学だのなんだのを齧って知った気になっていたが、実際肌で感じると重みが違う。(何事もフィールドワークって大事なのね)
以前、舞城王太郎の小説における「マトモな人」というのは、「絶対的な基準が無いことを知っているから、世界との付き合い方を自分の中で決めている人」なんだと思う、と書いた。
ウン、多分そういうことなんだと思う。
「善と悪に絶対的な基準なんてないけど、俺はこう思うからこれは正しいってことなんや」という選択の仕方が出来るということ。
その世界のゆらぎを許容できる生き方には憧れがある。