ブギーポップは笑わない

昨年あたりから細々とブギーポップシリーズを読み始めていて、やっと『ヴァルプルギスの後悔』までたどり着いた。本来ならば中高生の頃にどっぷり浸かっていても良かった筈なのだが、まぁ縁が合わなかったんだろう、1巻を読んだだけで終わっていた。

もうライトノベルってやつを昔ほど読まなくなって、そんな昨今に少し寂しくなって、そういえば久々になんか読むかと思い立ってブギーポップシリーズを読み始めた。

いやぁ面白い。
中高生で読まなかったのが悔やまれる。

というか、中高生で読んでいたらきっともっと心酔していただろうなと思う。

自分の思考の基盤にある考え方の一つとして、森博嗣とか西尾維新とか恩田陸がいると思う。(それらは高校の頃、読み漁ったものだ)多分、その頃にブギーポップを読んでいたら、思考の基盤の一つになっていたと思う。

今、読んでもそれほどブギーポップに浸食されないのは、きっと自分の中の価値観だとか倫理観みたいなものが確立してしまっているからだろう。
中高生の頃ほどもう、迷っていない。
だからブギーポップも、小説として読める。
迷ってばかりの中高生の頃なんかに読んでたらきっと傾倒してしまって娯楽どころじゃなかったのではないかとも思う。
こんな、世界の何もかもを見渡しているような、物語に勝てる気がしない。

しかしまぁ、
なんにしても、「世界は本当は嘘を吐いているかもしれない」という事をを教えてくれるのは小説だけであろう。
正しいと思うことそのものへの疑問を持つ、という視点とでもいうか。

きっと、犀川先生とか、ブギーポップの「世界の敵」の敵というような、流転する物語の外側にいる人間というのはノンフィクションでないと存在できないものなのかもしれない。

だからこそ、そういう物語に強く惹かれるんだろう。
特に、迷っているときは。