オメガ城の惨劇-感想メモ

感想メモです。

シリーズ外小説でした

・勝手にGシリーズ最終巻発売だと思っていた

・Gシリーズ最終巻ではなかった。そうだ、冷静に考えればXYときてZやんけ、ゼータの悲劇になるはずだったんだ…

・思えば「多大な期待ほど、つまらなさをひきよせるものはありません」(P61)と言われた時からなんか冷や水を浴びせられたような気はしていた。

・でもつい興奮して最後まで気づかなかった、マガタシキ招待状に興奮している客と一緒やんけ

中身の感想

・WのダイイングメッセージはWife?オメガとWが似ているという読者へのミスリード

・なんか勝手に最初に城の場所をフランスかどっかだと思っていて、途中から「マガタ研究所」で日本だったんかーいってなった(ミスリードっぽい)

→「村の外れの宿」って日本であんまり言わないモン

市町村合併や…市町村合併がミスリードになっとるんや…

・「私が知っているブティックがある」というサイカワ先生、おかしいやろ

→このあたりでようやく本当に犀川先生への疑いを強めました。それまでは私の知ってる犀川先生と違うという気持ちと私が犀川先生の何を理解できているんだという気持ちが拮抗していました。

・森ミステリファン、編集部、メフィストファンという全方位に向けたファンサービスだった。

→最後のサプライズもファンサービスと言えば、それはそう…

・でもさあ、やっぱり消化不良感があるよねぇ!?(ここでもう一度、冷や水が入ったタライが落ちてくる)

Saikawa Sohei’s Last Case

・エラリィ・クイーンの『レーン最後の事件』Drury Lane's Last Caseのオマージュ?

・とするとやっぱりGシリーズ悲劇三部作の次の作品?

・まずでもエラリィ読んでないからなぁ、俺!難しいことは何もわかんねぇ!

・これで保呂草さんが犀川先生になりすますシリーズが始まったら笑ってしまう

ネタ拾い

・エピローグで紅子が「あの方は昔、あの研究所で働いていたこともあるんです、しかもご夫婦ともに」と言っていたけど、実は『F』の登場人物の誰かが保呂草だったなんてことあったんかいな

→久々に『すべてがFになる』読み直したら弓長夫妻(医者と看護婦)とかいうのが研究所で働いてた…。保呂草夫妻と思って読むとそう読めなくもない。

  >四季「奥さまには道流が優しくして頂いたわ、お礼をいいます」
えーっでもそんな、そんなとこから仕掛けがあります?あなた、これ、2009年…13年前なんですよ…それこそすべてがFになるじゃないですか…(すべFはだってそういう話やから)

 

・ソフィア=四季説を唱えています(何の意味もないですけど)

→『有限と微小のパン』でも遊んでらした…

 

森博嗣のこの四季関係Wikiが欲しい、欲しいじゃなくて自分で作れって話なんですけど…。

2022年夏のこと

Twitterや読書会のメモの寄せ集めではある。

小説

レオノーラの卵/日高トモキチ

以前アンソロジーにて表題作『レオノーラの卵』を読んだことがあり、かなり良かったので短編集を購入。

つかみどころのないような、少し不思議な話が多い。少しとぼけた感じの語り手、最後までなんだかよくわからないマクガフィン、出てくる必要のない登場人物、など全体の雰囲気は非常に好みだった。ただ、会話のテンポが若干悪く、だれが喋っているのかわからない台詞が並ぶことが多い。元が漫画家ということなので、確かに漫画だとこのテンポでギャグになるんだよなぁというのもよくわかるところ。

まほり/高田大介

・村に蔓延る蛇の目紋、隠匿された少女、余所者を敵視する村民…と王道の場所でこの不穏な田舎の奇習とは何なのか?そして”まほり”とは何か?を紐解く民俗学ミステリィ

社会学専攻の大学院生を通して物語は進むのだが、「ちゃんと勉強している大学生」なので、しっかりアカデミックな調査をするんだよな。つまり我々は彼を通して架空のフィールドワークをすることになります。史料がめちゃくちゃたくさん出てくるし、大学教官やら博物館館長などの有識者も出てくる。運と勘所の良い探偵やら記者が首を突っ込むのとはワケが違う、何故ならいまは令和だからです。

・不穏な田舎の奇習に囚われし少女を助けるのに、外から来た男の「それって児童虐待ですよ」に大人達が「ウッ…」とたじろいでてそこもちゃんと令和の小説だった。

 

舞台としては『犬神家の一族』『ひぐらしのなく頃に』などのイメージだが、推理パートはきっちり時代に即しており、なるほどなぁと思った次第だった。

不村家奇譚/彩藤アザミ

読書会課題本。「令和の怪奇小説!」というメンバーの感想に惹かれて。

「あわこさま」という存在が居る憑き物筋の一族の話。あわこさまは五体満足の者を憎み、一方で欠損を持って生まれた一族の者に凄まじい恩寵を与えるという。六章あるそれぞれが、物語はこの一族に連なるものたちの視点で進み、時代もまた章ごとに移ろう。彼らの、呪われた血ゆえの禍福に満ちた人生とそしてあわこさまの謎を追う物語だ。

・この令和の時代に”呪い”というと、ホラー映画かよと作り物のような滑稽さがあるが、六章にわたり脈々と描かれてきたそれがあるので上手く否定できないように作られている。むしろ2030年に呪いを出現させようとするとこうなるんだなと。

・「かたわ集め」の視覚的な異形さと村民の嫌悪感で始まるが、ともすれば百合青春ミステリとも読める『水葬』、同性愛に終わる『月の鼓動を知っているか』と物語の構成自体にも多様性というか、時代により社会そのものの目線が変わったことを上手く組み込んでいる。時代によって変わるものを描くことで、変わらないあわこさまの存在も際立つ。

 

読み心地としても、時代背景に合わせた文体や言葉選びが洗練されており、リーダビリティも高いうえに程よい怪奇を味わえる。

蝶と帝国/南木義隆

ソ連xSFx百合、という謳い文句である。

・キーラの「色を流し込む」という超能力(野生の力?)という設定が、現実感がないのにSF的な背景もなく、読み進めている際の違和感がすごかった。この設定をどう受け止めていいかよくわからなかった。ナイフ投げが上手かと思いきや料理と経営もできて、設定盛りすぎでいまいち人生の現実味がない。現実の生き難さの話なのに…

・料理が物語を支える地盤になっているのがとても良い。文化・人の違いや交流を一度に描いていて使い方が巧いなと思った。料理・食事という行為は丁寧に書くとそれだけでドラマになるよね…。

・p256「革命が…皇帝と神を殺してくれたから…革命を殺せば総取りだと思ったのだけどな…」という台詞が一番好き。この本の核だと思います。

・死者は月にいく、というエレナとの会話から、終盤で「生きて月にいく」とアメリカの月面着陸を意識させ、感情の物語と時代説明をリンクさせていて見事な締めだなと思いました。この小説は読み返せば読み返すほどアイテムの使い方が本当にうまい。国語的なスルメ、模範的な文学作品だ。

・百合というか女性同士の恋愛については「女同士だからこそ」を描いていて、だからこそ見えてくる悲喜交々が鮮やかで文学だなと思った。(2回目)
・でも個人的には、多様性の許容によって、百合というジャンルはこれからよりファンタジーになっていく(悪く言えば衰退していく)と思う。 

化物園/恒川光太郎

・やはり良質なホラー。死体を隠蔽し襖を目張りした一階の部屋からクリスマスパーティーの声がするが、その恐怖を怠惰で蓋をする男の破滅的な逃避。落語の顛末のように小気味良く転がっていく狂気の果て。どこから怖いのかが分からない恐怖がそこにある。

・闇の傍に在るのが性根が腐った奴だと安心できるな。俺は善性を愛する人間だからあれは対岸の火事だ、と嗤っていられる。最初の三篇からの四章目の冒頭が最高です。ただ、氏の短編集は必ず澄み切った空のような爽やかな話が一話あり、いつもそれに救われる。

・一方でこの常川氏の得意とする(?)「ヒト側とは異なる存在の善悪」がまた上手く描かれている。七編で共通して描かれる”バケモノ”とは一体何なのか、それはただ怖がらせるためのホラー的存在ではなく、ある種のあちら側の秩序に沿った生き物なのだ。

でもそこは確かに化物園なのである…。

5A73/詠坂雄二
5A73

5A73

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飛び込み自殺、首つり自殺…一見無関係に見える自殺だったが、発見された死体には「暃」の文字がある。それは本来は存在しないにも拘わらず、パソコン等では表示されるJISコード「5A73」の文字、即ち幽霊文字だった。二人の刑事たちは、事件の手掛かりを探り、「暃」の解読に腐心するが…?

序盤はかなり面白いんだけどもちょっとこの「幽霊文字」というものにテーマを絞りすぎて、特別視しすぎなとこはある。この”幽霊文字”で一本書いてやるぜッという作者の熱い思いは物凄く伝わってくるが、ミステリィとして面白いかといわれると微妙。刑事による推理も「そうなるかぁ?」という気持ちだし、真相についても「そういうことにしちゃいます?」という感じ。

ただ、探偵役たる二人の刑事がめちゃくちゃキャラ立ちしているわけでもないのに、だら~っとした必要な会話だけで心地良さがある。ちゃんと仕事のできる人同士のちょうどいいビジネスの距離の会話って気持ちいいよね~を小説でシンプルにやっているのは少ない。この作者のそういう部分はもっと味わってみたいなと思った。

この夏のこともどうせ忘れる/深沢仁

『冷たい校舎の時は止まる』『夜のピクニック』あたりが好きなら、これ以上情報を入れずにただこれを買って読んだ方がいい。

瑞々しくそして憂いと哀しみに満ちた青春小説サマー、100点である。

8月が終わる前に読むべき。え?読んでない?もう10月?私があんなにTwitterで教えてやっただろうが……

 

表題の「この夏のこともどうせ忘れる」にすべてが集約されており、そういう夏が4編ほど載っている。”どうせ忘れる”と言うのは、夏にいる彼・彼女らではない。そう言ってしまえる、そういう夏をいくつか抱えた(そして当然のように失った記憶だけがある)私たちなのだ。

大人にあと一歩届かない場所にいる少年少女の未成熟ゆえのプライドや傲慢さ、不安、興味が鮮やかに描かれている。そして夏が起こす”特別”が、すべて完璧なタイミングで終わる。そう、この小説が素晴らしい理由の一番は、物語が終わるタイミングが完璧なのだ。物語があるべき場所で終わること、そしてそれが夏であれば余計に難しい。なんかうまい終わりとかエンディングスタッフロールが流れちゃう物語もたくさんある。そうあるじゃないんだ、現実は。

ああ、と短い嘆息が漏れて…遠ざかった夏がここにある。

怪盗フラヌールの巡回/西尾維新

やはり西尾維新は面白いよぅ…と言いながら読んだ。化物語シリーズ後半の文のノリが合わなくなって読まなくなってたけど、ミステリィは依然ファウストであり続けており、自分はそれを求めているんだって再確認しちゃったな。

「盗んだものを返却する解党」となった怪盗フラヌール二世。二世?そう、二世だ。そこに彼がこの現代において怪盗なんぞをするに至った理由と返却の理由、そう存在理由の全てがある。舞台は海底に存在する大学、隣にはマシュマロをむさぼり続ける高慢な美少女探偵と常識人たる敏腕中年刑事、あと語尾が「ハッピーゴーラッキー」の天才と有理数とかいう名前の天才と無理数とかいう名前の天才!ワオ!西尾維新だ!

怪盗という極めて非現実的な存在を、西尾ワールドという現実の中で常識と辻褄を合わせながら存在させ、物語を回していくその手腕はさすが。連続殺人というニ段組みのミステリ要素も混ぜているが、「怪盗がどう返却するのか」という主題を損なわないように回答はすぐそこだ。(怪盗だけに!)

シリーズものというだけあって気になる展開で終わり…これから世界がどうなるのか次巻も楽しみだ。

 

西尾維新、戯言も化物語もそうだったけど、家族という信仰が祈りにすぎないことをあらゆる側面から(でもただの物語の背景の一部として)書いていて、でもたぶんその信仰を肯定しているところがね、とても好き。

アニメ

リコリス・リコイル

lycoris-recoil.com

平和な日本、という建前の裏で実は反社会的な人物は極秘の政府公認殺人組織に所属する少女たちによって消されていた…という世界観でのお話。そういう世界観なのだが、話のキモはそこではなく、優秀だが優等生にならない千束ちゃんと優秀だが優等生になりきれないたきなちゃんの話である。ゆりゆり言われてましたが、感情と交流の話なので、まぁ百合です。

ここからは別に未読に向けた紹介とかじゃなく書きたい感想を書きます。

観ている間はこの世界観の粗さが目につくが、話のキモがそこではないのでまぁ流していた。むしろそういった雑味を無視することで、これほどに人間の間に距離、かわいさ、意思、感情が描けたのだともいえる。そっちにバランス取ってたらこんなにかわいくならねぇ。

…とも思っていたのだが、最終話で千束が「世界なんてどーでもいい、私は自分のまわりの人間が笑っていればいい」と語っており、このアニメそのものが千束の価値観を表象した物語なんだなと思った。世界や設定の粗などどうでもよく、一方で千束が「大切だ」と思う部分は深堀りされている。だからこそたきなが、タキの存在が描かれているのであり、このアニメは物語のバランスなんてものは無視して「何を描き、どう世界を見るのか」を徹したアニメなのだ。

あと千束さんの喋り方がめっちゃくちゃかわいい。

音楽

The band apart

私が好きそうなもの教えてって言って教えてもらったバンド。

耳障りでない、このギター(バンドが持ちがちな指でベンベンする洋楽器を全てギターと言っています)のジャカジャカの感じがかなり好き。我が名はアジカンブルートレインの前奏が大好き太郎…。今のところピルグリムが好きですね。

検索して各自聞いてください。

次回予告

積んでるやつ

アホウドリの迷信』

『むらさきスカートの女』

スローターハウス5

『わたしたち異者は』

 

vergangenheitsbewaltigung

小説を書きたい、と思っていた時期がある(今もかもしれない)

ポエジーなフィクションを書くことそのものは好きで、景色や音楽に感化されて時々散文を書いたこともある。自分の目に映らない景色を文字で映し出して、そうして自分が好きな昔の自分の文章がいくつかある。そうだね。

そのまま小説が書きたいなと思う。

というか自分が読んでみたいと思う物語を空想することくらいはあって、それを実際に文字や言葉にしてみようと思ったことはある。でも駄目なのだ、

人間を登場させたところで駄目になる。

自分の生み出した人間に吐き気がする。

キャラクターが出てくる。会話をする。動く。考える。そこに矜持、憧憬、嫉妬、正義を内包する仕草が、言葉が纏わりつきはじめたころ、どうにも厭になってくる。書いて、気持ち悪くなって消してしまう。段々書くことすら出来なくなってくる。

オエー

 

これは二次創作でも同じで、すでに完成しきった物語のキャラクターを勝手に動かしてストーリーの二次創作をすることにも物凄く抵抗がある。別に原理主義者というわけでもないんだけど…。東方とかLOLとかキャラクターありきで物語に隙が多いものは、自分もたくさん描いたことがあるし、読んでいていも楽しい。でもリリカルなのはとかジャンプ漫画とか、もうすでにそこで物語が閉じているところでキャラクターのifをされるのが本当にダメだ。ダメというのは批判ではなくて、自分の感受性がダメなのだ。死んでしまい、面白さが全く理解できない。

自分がそれを作り出せない、その姿が想像ができない、という悲しみが、虚しさとなって全てを覆いつくしてしまうのだろう。

 

たぶん、人間的であるということに恥みたいなものを感じているからなのかもしれない。

感情に振り回されず合理的で温和な人間が完成形、みたいなイメージを持っていて、常に自分はそこに至れない愚かな人間だという恥がある。泥人形に感情を乗せるには、そういった自分と、手持ちの感情と向き合う必要があって、そこにただ耐えられないだけなんだろうな。この思考もだいぶヤバいなと思うけども、なんかちょっと人格形成に失敗しているのでどうしたもんかなと思っている。(まぁ人格形成に成功していると思っている人間もヤバいが)(人格形成について失敗も成功も意識していない人間が正解)(人間に正解はないって言ったでしょ!)

 

え~どうしよ~という感じではあるが、創作そのものはどうにかしてやっていきたいのでうんうん唸っている。やっぱり”物語を作れる人”というものには強い憧れがある。

とりあえずストーリーテリングの本なども読み始めたので、目下は寝物語でも紡いでやるかいと考えている。いつか恐ろしい物の怪に囚われたときに、少なくとも謎掛けや御伽噺で窮地を脱することができるようには、ね。

 

もしかして、地球が右周りで回っていることと関係あるんかなぁ?

新幹線で東京から名古屋へ向かおうとする夢を見た。

あいにくの雪で東海道線は止まっており、それでもなんとか今日中に名古屋に行きたいので、金沢を経由するルートにしようと思う。灰色の空に夜が忍び寄る。私は反対側のホームに滑り込んできた列車に乗る。しかし乗ってすぐに、それが金沢行きではないことに気付く。次で降りて引き返そう、と思う。次の駅は山の高いところにある…ホームと小さな駅舎があるだけの無人駅。何度か夢に出てきたことのある、三重の山奥にある駅だ。実在しない。

「名古屋まであんなに遠いのに、反対側の電車の一駅目が三重県なはずがない。距離がおかしい」と私が言うと、彼は「でも、実際にここにいるわけだし」と苦笑いする。それは、そうだ。事象は嘘を付かない。考えろ、何か理由が、ロジックがあるはずだ。

「もしかして、地球が右周りで回っていることと関係あるんかなぁ?」

Wikiscient - I created this animated image using NASA's "Visible Earth" image (in the public domain)., CC 表示-継承 3.0, https://commons.wikimedia.org/w/index.php?curid=8595947による



右回りじゃねえ

 

 

石橋も石橋で叩いて残った方の石橋を渡る

たたききゅうりを作るときにきゅうりできゅうりを叩けば、何がどうなっても求めていた結果になるのではないか。手元のきゅうりか俎上のきゅうり、どちらかは破壊されているだろうし、今ここにあるのは破壊されるべきものだけだ。どんな道筋を通ろうとも結末は望むかたちに収束する。私はこういう安心感が好きだ。

何らかの行動に出る時…つまり未来に向かって塞が投げられた時に、そのあらゆる結末が自分の想定した許容範囲内に収まると安心する。結果が失敗を回避するということよりも、事前のそういう「よし、これでOK」という思考の十全さ、隙のなさを求めている。全能感に近いのかな。知性を正しく使っている、といった満足感だと思う。

チェスや将棋と相性の良い精神性かもしれない。

でもそこに矜持をベットするほどの気概はないので、勝負には向いてないだろう。

 

 

ファイト・クラブ、或いは私が訪れない愚かな地獄

TwitterのTLにときどきファイト・クラブを読む蟹の画像が流れてくる(なんで?)ので、ようやくパラニュークの『ファイト・クラブ』を読んだ。

ファイト・クラブ規則第一条

 ファイト・クラブについて口にしてはならない

ファイト・クラブ規則第二条

 ファイト・クラブについて口にしてはならない

で始まる規則を掲げ、死と生の実感を求め足掻く男達のための一対一の闘いの場、ファイト・クラブ。起承転結のストーリーの妙は殆ど重視されず、ただ…そう、「暴力」でもって何もかもを解決する精神の話である。そこにある問題を解決するために暴力を振るうのではなく、そこにあるものを理解するためには暴力というフィルタを通さないと理解できない。そういう地獄に堕ちた男の話だ。

 

祝祭のような爆散と破壊があり、血の匂いと骨の砕ける音に意味がある。

ここでは暴力に神聖が宿る。

 

 

でも私は暴力に神聖を感じることが出来ない。

暴力とは愚かな豺虎が振るう力のことであり、感情を制御出来ない幼さの体現であると思う。思考や言語が未熟な子どもならまだしも、いい年した大人が拳で語るなどというのはフィクションに定着したある種のファンタジック・ロマンスであり、殴り合って分かり合えるものなど何もない。血の匂いと骨の砕ける音に意味はない。アホが怪我をしているだけだ。だから主人公がファイト・クラブに魅せられるのも、心が暴力によって救われ、魂が暴力によって破滅させられても私には愚かな顛末としか考えられない。もっと頭を使ったらどうなんだ?

 

これは言葉と思考こそが至高であるとする私の宗教による差別だ。

「話せば分かる」といった平和の祈りではなく、人間とは思考によって世界を理解し、言葉によって精神を磨ぐべきであるという信仰だ。救いは熟慮の果てにある。考えろ。力を求めるな。身体が闘争を求めるのはお前が人間として未熟だからだ。それはあるべき人間の姿ではない!

自分は理想とする精神が清廉すぎるところがある。

しかも、それが正義というもののすぐ傍にあるのがあまりにも過激である。たぶん、「正しさ」というものを教科書的に学習して行動理念にしてしまったことと、感情は思考によって制御されるべきと至ってしまったからだと思う。人生のテーマは誠実だ。人生にテーマがあるあたりも過激すぎる。

でもこういうところに落ち着いてしまったので自分はもう駄目だし、こうなるしかなかったのでこれで良いのだと歓喜もしているのだ。私は天国に行く。

 

私の人生にタイラー・ダーデンが出てくることはない。

これは私のための物語では無いのだ。

 



 

共通思考とは何なのか?

「作られた目的はなんですか?」

「ハギリ博士にお答えしました。人類の共通思考の構築です。(中略)」

「共通思考とは、どんなものですか?」

「人類の理智の多くが参加することで形成される思考形態のことです。そのためにネットワークを構築してきました。」

—『デボラ、眠っているか?』

Wシリーズに続くWWシリーズでは人工知能とヴァーチャルによる未来が描かれている。その中で核として言及されているのが真賀田四季博士が百数年前、コンピュータ黎明期に仕込んだとされる「共通思考」なるプログラムの存在だ。

来たる未来に備えて組み込まれたというそのプログラムに主人公たるグアト、そして読者も解明を続けている。

「でもグアトは、その共通思考が人類に不利益をもたらすものだとは考えていませんよね?」

「そう、私は、マガタ・シキという才能を信じている。これには理由はない。完全に宗教だね」

『リアルの私はどこにいる?』

私も信じている。

では 「共通思考」とは何なのか?

考えていることを共有するということ

 ヴァーチャル世界の住人というものが出てきたときに、相互の人間の関係はどうなるのだろうか? 私たちは物理世界から、彼らのことをどのように捉えるようになるのだろうか?

一言で答えるのなら、「幽霊」だろう。

 

『幽霊を創出したのは誰か?』ではこれがテーマだった。

しかし、この時の「幽霊」という単語からとれる解釈はあまりにも広すぎる。

魂のみの存在という意味もあるし、強い感情の残滓という意味もあるし、そこに死の面影を感じることもできるし、あるいは同じ空間に居ながら互いに認識できない存在という抽象的に取ることもできる。西洋と東洋では幽霊のイメージも違う。

そこで、ここで使われる「幽霊のようだ」という一言の意味の純度を上げるためだけに今回の事件が起こっている。作中でグアト自身「自分にこのことを勘付かせるために起こったような...」と言っているけれども、これはグアトにテーマについて考えさせるためだけにという意味ではなく、答えはもう先にあって「正確な意味(意図)の純度を高めるために」行われている。グアト(と読者)に意味を正確に伝えるために「物語を構築した」と言っていい。

 

「思考を物体のように信号を共通化する」ということ

さて、このように言葉を尽くすことによって、私たちは齟齬を最小限にとどめようとする。消えることはない。そう、「意図と言葉の間に生まれてしまう齟齬の存在」、これが真のテーマだ。

頭の中に描いているイメージをそのまま相手に「見せる」方法はないのだろうか?

 

それを面白い形で実現したのが、チャイナ・ミエヴィルの『言語都市』の異星人だ。 

言語都市

言語都市

 

彼らはヒトと異なる言語体系を持ち、徹底して絶対に嘘をつかない・正確な内容伝達を至上とする話法を用いる。その手段として、彼らは「直喩」を作る。

例えば「大きな穴を塞ごうとしたが塞ぎきれなかった板のような」という直喩を使うために、大きな穴をあけて、塞ぎきれない板でその穴を塞ぐという「事象」を作る。

直喩というものを逆構成で仕立て上げ、イメージにあたる物体を作る。それがこの異星人の答えだ。まさに「思考の物質化」である。

 

しかし、バーチャル空間では物体は存在しない。それは単なる設定でしかない。

人間たちが「肉体はほぼ同じ物体でできている。世界にある物体が、すべて同じ粒子群で構成されているから、このような共通感覚を持てる、ということだ。だが、電子の世界ではそれは単なる設定でしかない。リアルでは当たり前のことが、ヴァーチャルでは特別な設定になる、ということだ。

『幽霊を創出したのは誰か?』

だからこそ、WWシリーズでは、「信号の共通化」となる。そして、それが「共通思考」というものの核心なのだ。

共通思考というのは、物体のように信号を共通化することかもしれない。そうすることで、お互いの信号がお互いに確認でき、お互いに影響を及ぼすことができる。すなわち、思考が、物体のように目に見えて、手で触ることが出来、移動したり、加工したり、破壊することができる存在となる。思考が物体になる、といえば良いか。

—『幽霊を創出したのは誰か?』

物理世界では「物体」の共通認識には差異はない。その通りだ。あなたが見ているものがりんごならば、わたしがみているものもりんごである。そして、「これはりんごです」というコミュニケーションが成り立つ。でも気持ちや考えていることはそうはいかない。あなたの悲しいと私の悲しいは同じ粒子群で構成されているとは限らないから、「共通認識が成り立たない」というのが前述のグアトの発想だ。

 

悲しい現実だ。それでも感情を思考を共有したいと考えるのが人間だ。

私たちはどうしているだろうか? 

 

そう、言葉を尽くしている。それでも完璧に伝わった・伝えられたとは思えないはずだ。それが言語コミュニケーションだからだ。

「意図と言葉の間に生まれてしまう齟齬の存在」。

そもそも言語を介さなくて良い思考形態があるならば?

 

これと同じようなことが前巻であった。

 そう、物質界では実現できないことでも、電子界で実現できることがある。前提が違うからだ。 

あなたを理解するということ、孤独を打ち砕くということ

物理世界では思考が電気信号で伝達方法たる言葉が「音」である。しかしヴァーチャル空間では思考と伝達方法が共に電気信号になる。どちらも同じ形式だ。

入力と出力が同じ形式ならば。

もしその齟齬を除去する、というかそもそも発生させない変換があるとすれば。

もしかしてその変換方式が、「共通思考」なんじゃないか?

僕たちは、鳩がどこへ飛び去ったかも知らない。

あの人がどうして、自らの命を絶ったのか知らない。

自分一人だと寂しくなる理由も、わからない。

いくら肌を触れ合っても、いくら愛し合っても、身近な人の気持ちがわからない。

おそらくは、そういう障害をすべて取り除こう、と彼女は考えたのだろう。

そう、マガタ・シキという一人の天才は、自分が一人だということに疑問を持ち、それに抵抗したのだ。その孤独を打ち砕くために構築されたプログラムこそ、共通思考であり、そしてそれは、今のこの社会そのものの未来でもある。

—『リアルの私はどこにいる?』

そしてそれは逆説的に、その変換プロセスを通る前を「心の中」と定義することが可能になる。内面と外側の双方がデータ化されて境目が無くなった世界では個人も曖昧になる。個人を保つのは、私は私であるという心、信仰だけだ。「心はあるのか?」に対して心、意識が個人に存在すると信じていける根拠が出来る。

 

出力が正しければ、正しいデータが出てくれば、それらは発達したコンピュータによって最適な処理を行う事ができるだろう。

入力が正しければ出力も正しいのがコンピュータだ。

「大まかなイメージとしては、世界中の人間の思考を取りまとめるようなシステムだろう。それが実現すれば、政治家が不要になる。人類は見かけ上、一人の人間のように、世界のことを考えられる。自分たちがどうすればよいのかを判断できる。犯罪もなくなり、協調と協力しかない理想的な世の中になるはずだ。」

『リアルの私はどこにいる?』

政治家が不要になるというのはそういうことだ。直接民主制が実現可能になるんだから。

人間の命令を曲解したAIが暴走してディストピア誕生、といった猿の手のようなオチも笑い話になるだろう。ちゃんと伝わるんだから。「ちゃんと伝える」は共存において最も大切な基礎だ。

ヒトと、ヒトでないものと、人工知能と、何と共存するにせよ。

共通思考を描くもの

結局「共通思考」って何なの?という質問には「これです」という回答はないのだと思う。当然だ。 共通思考というものを一言で表すとそこには解釈の余地が発生してしまう。しかし、現状の我々にとっては、言葉を尽くすことによってその解釈の余地を限りなく狭めていく、というのが最善の手法なのだ。今はそれしかない。

 

だからこそ、物語が出来上がった。

 

つまり――このW&WWシリーズこそが、十数冊の書籍に収められた文字群こそが....共通思考へのアンチテーゼなのだと私は思う。